美の特攻隊

てのひら小説

青春怪談ぬま少女〜14

学校の廊下ってこんなに静かだったかしら。
今はわたしと先生だけだからそう感じてしまうかも、しかし実際には人数の問題ではなくて、これは変かも知れないけど何者かがこの廊下を、いや、おそらく教室を学校全体を制圧しているような気配がする。
管理者らしき沼の支配人がわたしをじっと観察しているのだわ。
そう感じてしまうのだから仕方ない。でも平社員の分際で社長と会談するなんて恐れ多いなどという考えに導かれまして、はい、学生なので就職が念頭をよぎることもありそうな気がし、そんな類推で自分をなだめすかしてみたのでした。
門前より眺めた校舎の造りからするとこの廊下はいやに長く、時間が床を這ってそうな実感にとらわれてしまう。けど無限なんかじゃありませんよね。わたしの足音はたやすい逢着のひびきをたてている。
それより先生けっこう早足でして、わたしの気分はまだまだふさがっているようで、へだたりが響きに歩み寄っているのか、それとも響きがへだたりをひろげているのか、とにかく安易な心持ちに蜘蛛の糸が絡まったみたいに足取りがもたついてしまうのでした。
右手にはガラス窓が間隔を置いて並んでおり、見慣れたのやら珍しいのやらよく分からない光景が収められている。教室らしき扉に行き着いたのは、ぼんやりしたあたまがからだをふわりと浮かべてくれたからであって、わたしの意志はあらぬところをめぐってたようですね。
とにもかくにも11年ぶりなのです。
記憶がない分まっさらの新入生として意気込みは必要だから、空元気でもいい、きちんと挨拶しよう、そう念じたものの鞄を握った手は汗ばんで、顔がこわばっているのが不自然な感じがし、軽く深呼吸してみました。

「みなさん今日から転入することになりました、志呉由玲さんです」
吸気が知らぬ間に距離を縮めたのか、すでにわたしは教壇の脇で先生と並んでいました。
それまでの場面はカットされたみたいで、たぶん肉眼を通して映りはしたんでしょうけど、脳内が編集してしまったようですね。まあ、この場合それでよかったのだけど。
さて教室のみなさんです。これは編集しなくてもよさそうでした。生徒は3人だけ、男子1名、女子2名。いっせいに直線を走る冷たいまなざしがわたしに向けられると、決して好意的な顔つきを見せないのに興味あるくせ表情の裏には、別の普段着へ袖を通しているような、意味もなく冷蔵庫のドアを開くふうな、何かありきたりなことだと見下している面を張りつけているのがまざまざうかがえた。
面倒くさいんです、そういうの。
あなたたちがそうであるのと同じく、わたしの面持ちだって歪んでいると思う。そして気取りと小胆が表裏一体のうちに袋小路へつき進むことを忘れ去り、さっき廊下の果てに想いを運ばせた心情を読み取ろうとしないのも一緒。
最初の場にはなじみという枠組みがあらかじめ解体されたまま散らばっていて、軋みを気取られない素振りで新たな人手を、自分たちすら棚上げした情況に引き込もうと待ちかまえている。ちょうど呼気が声なき声をふくんではちいさなほこらに吸い込まれるように。

「転入生の志呉です。よろしくお願いします」
わたしはいかにもあかるい素振りでペコリとあたまを下げました。
すると思ってもみない反応が、、、笑みこそ浮かべてはいないけど、ポテトチップスをかじったくらい軽い拍手で迎えられたのでした。こうなれば少しは元気がわくもの、本来20人くらい生徒がいそうな教室の閑散とした空気は遠のいて、小走りしたい自由な雰囲気がひろがったのね。
わたしは3人に近寄ってもう一度、ちょっと真面目くさった顔つきで会釈した。で、さらなる反応を得るより早く先生のもとに引き返し、まるで軍隊式の直立不動の姿勢で指示を仰いだわけ。
まあ精一杯の印象づけってとこかしら、ニコニコしてるだけじゃいけないって怖れに支配されていたのね、きっと。
3人は机をひとつづつ空けて並列に座っていた。わたしは左右のどちらかね、そう案じてたら、
「志呉さんは一番まえに」
って言われて、それまでの華やぎなのか投げやりなのか、わからない気分が吹っ飛んでしまった。
結局ありがたみのなくなった謎めきに舞い戻ったってこと。
学生なんです、規律は守ります、勉強だってしっかりやるわ、なのにどうして差別されるわけ、先生も他の生徒も幽霊なんでしょう。よほど11年生は不始末を犯したわけなの、だったら今すぐにここで説明してほしい、洗いざらいすべてを。
わたしの憤懣を見て取ったのか先生は温和な目色で、しかしもの憂い瞬きを用いながら、こう話しかけてきた。
「あなたは学年では先輩だけど、お勉強に集中してもらわければいけないの、ブランクを取り戻すのは簡単じゃないわ。よそ見や私語なんか無論ないとは思うけど念には念をいれてその席でがんばりましょうね」
ブランクって言葉が波紋のようにひろがった。同時に底しれない空洞を作り出し生理的な悪寒が走った。
もう反抗する気概はうせていたわ。悪意に満ちた沼底では怒りの感情が、炎と熱風を模した関係におさまってしまい、鎮静を望むまえに災禍に立ちすくむ放心へうながされる。
あれこれ質問してはいけない、、、わたしはあのとき強制労働者の心境を裏ごしし卑屈な気分にはまってみたけど、現実に降り掛かってくる火の粉は恐ろしい勢いをふるって、すかした思いなんかあっと言う間に焼き払われた。
渋々じゃない、自動装置に流されるれる体勢で指定された机に着いた。いよいよ授業が開始される。出席簿なんてとらないわよね。えっ、規律、礼、こんな数少ない生徒なのに、まさか、、、

「ヨゼリ・ベロニアさん」
「はい」
「マリアーヌさん」
「はい」
「フランツ・カルフくん」
「はい」
「志呉由玲さん」
「は、はい」
やや脇が汗ばんだけど、これで3人の名前を知った。つまり先生は最低限の自己紹介をわたしに示してくれたんだ。なんて勝手に考えているうちが救いだったと思います。
ちょっと待ってよ、なんでみんな外人の名前なの!どうみたって日本人でしょう。
脇の下が冷たくなるまでいかに早かったか、めまいの訪れをこばむ間もなく、けれども目の奥のほうでは万華鏡に似た鮮明なかがやきがやんわりと渦を巻いているでした。

青春怪談ぬま少女〜13

燦々と降り注ぐ太陽、まぶしそうに目を細めたりしてみる。
朝食をすませ身支度を整えたわたしは、いつも迎えてはちょっとだけ背伸びする朝のように玄関をあとにした。
見送りのヤモリさんは口ぶりのわりには淡々とした態度で、もっともこのひとはそういう気質なのか、職業がらなんていうと生意気だけれど、多分そんな感じがしたのね、本来なら物足りなさに胸が波打ったりするんでしょうが、なぜか落ち着きを保っていた。このひとは家政婦さん、見つめ直すまでもなく几帳面なアイロン掛けみたいにわたしの意識は折り目がついた。
あらためて眺めまわしても外はまるでアメリカ映画に出てくるふうな荒涼とした景色がひろがっている。学校までの道のりは分かりやすいといえばそうなんだろうけど、どうも方向音痴だった気がして何度も地図を見返したの。ついでにうしろを振り返ったりしたのは、やっぱり心細かったのかな。ヤモリさんのすがたはもう消えていた。
道らしい道はきちんとあるからそれをたどれば間違いないだろう、この赤ペンに沿って行けばいいんだ。広大な土地なんて思いこみかも知れない。ここは閉じているはずよ、うん、この直感には信頼が寄せられる。
ところどころに緑はあるし、ひょろ長い木だってちゃんと目印になっていた。それほど殺伐とした風景ではない、だって当初は牧歌的な気分がよぎったくらいで、結局わたしのこころが渇ききっているからでしょうね。辺りに親しみが湧かないのは仕方ないとして、とにかく遅刻しないで行けるかってことに専念せねば。

で、沼が沼でなくなったと感じた時から、絵の具を溶かしたような、着色料たっぷりの飴玉を無数に敷き詰めたふうな青空がわたしを軽薄な方向へなびかせてくれたのでしょうか、さっと吹きゆく心地よい風も手伝って、胸騒ぎは静まり、まさに行軍の勢い、ひたすら早足で通学路を急いだのでした。
ええ、見えて来ましたよ、見たくないなんて言いません、これが宿命ですから幽霊の、、、はあ、どうも歯切れがあまりよくないですね。
それはさておき、校舎もわたしの家と同じくこじんまりしていた。即座に生徒数が読みとれそうな建物、昭和モダン風でけっこう古びていて、なにより陰気くさい雰囲気が全体に漂っている。
これが10年学級だと思わず口をついて出そうになったくらいで、でもよく考えてみれば、それは過去形であり、わたしはいわゆる復学になるわけですから、あんまりビクビクばかりしてられない。
背筋をのばし、くちもとを引き締め、まなじりはちょっと自信ないけど、とにかく勇み足で校門をくぐりました。
しかし緊迫の糸にまだ絡まっていたみたい、だって他の通学生徒の影をお日さまは照らしてくれてませんでしたから。そう気づいたときにはせっかく正した背筋に怖気が走りました。
ひょっとしてわたし独りだけしか通わない学校かも知れない、やはり味到の孤独から解放されることはない、なんて念いに苛まれ腹を据えていたつもりが一気に萎えてしまったのです。
凝視する気概さえなくしてしまうと、うつろな目が辺りにさまよいだし、でも両足は呪縛にとらわれてないようで勝手に校内へ進んでいったわ。さながら悪霊らに不敵な態度をしめすごとく。

さてさて、げた箱に複数の上履きを見いだしたときの安堵といったら、ここは想像してみて下さいな。
その方が如実に得るものがあるでしょう。とかいってみたところでも誰もそんなことしてくれませんが。
ではどうなのか、それがですよ、案外すんなりと了解したのであって、いら立ちと悲嘆がないまぜになった気分が当たり前みたいに氷解してゆくのでした。いわゆる独り相撲って奴だったのですね。
ここに至ってわたしは悟ったの、なんだかんだで怖くて仕方なく救いの手を差しのべてもらいたい、登校拒否したい、お家に帰って布団にもぐりこみたい、そうした弱腰を思い知った。
同時にただ端然と立ち尽くてしまっていることを、こころの片隅では否定していたのでしょう、わたしはガランとした空間に向かって大声で張り上げこう言った。
「おはようございます。志呉由玲です。11年生なんですが、これからどうすればいいのですか」
反響音、いわゆるこだまですか、はい、耳鳴りもしたし、すぐさまのどが痛くなりました。こんなに大声を出した覚えがないから。
校内で騒いではいけない、これは規則だ。ところがお祈りでもないでしょうけど、ご利益はてきめんだった。
「目のまえの上履きが見えないですか、志呉さん」
この口調、振り向くより早く、わたしは電話の先生だとすぐにわかった。ところが世のなかには、ええ、実際には大してよく見つめたわけではないですけど、こんなに予想を裏切る場面があるものなんですね。
あのいけずで高圧的な声色とはうってかわり、まあなんと優しげな微笑を満面にたたえ、しかも清楚ながら凛とした空気をなびかせているではないですか。それだけじゃない、女優の誰かさんによく似ている、名前は思い出せないけど、あのひとよ、あのひと。
「自分の名前が書いてあるでしょ、さあ履き替えて教室にいきましょう」
声色は昨日と同じだ。響きも決してやわらかではない、しかし本人をまえにするとあの声の持ち主とは到底結びつかなかった。
「はい」
わたしの返事もなんだか自分のものでなくうわついている。半信半疑な心持ちにつつまれ適当な受け止め方しかできない。
「遅刻ではないけどもうみんな教室にいるわ、あとはあなただけ」
あくまで表情に険しさを刻まず、まなざしは淡く、事務的なくちぶりだけがそつなく緊張を強いる。親しみやすいのか、取っつきにくいのか、どちらちとも言えないわ。
「すいません、時計が壊れているので」
この期に及んでまだわたしは運命の時刻を凍結させた腕時計を外していない。先生は一瞥をくれることもせず、
「一緒に行きましょう」
とだけ言って背を向けて廊下へ促した。うしろ姿まで優美で気品があって、しかも教師らしい知性が薫ってくる。
参りましたね、内心そんな印象を抱かざる得なかったのだから、つまりです、まんざらでもないということでしょう。
ハラハラドキドキ、もじもじ、どうしてわたしは幽霊になってまで小心翼々としているだろう。
先生のあとを追いながら考えこんでしまいました。で、めげたと言いたいところですけど、なかなかどうして素晴らしい矛盾を感じたのですね。
青臭くも初々しい女子高生らしさが蒼天を旋回する黒っぽい鳥のように舞い戻り、涙なく胸をつたいました。人間くさい、わたしは生きているんだと。

青春怪談ぬま少女〜12

今日一日はもう語らなくていい。あっ、違うんです。取り澄ましたふうな口調ですけど、そんなに覚めた感情ではありません。
始まりの一日だからとても大切なのは承知してるし、気構えだってちゃんと備わってます。それに家のなかを隅々まで探ってみたあげくの果て、う~ん、これは失意でもないんだなあ、つまり割り切りなんです。この家はわたしのもの、明日から登校し帰るべきところ。そしておそらく単調な日々が続いてゆく。
誕生日にいつまでもしがみついているのと同じで、記念日にはさっとお祝いして翌日から平均値を保っていくべきなんです。毎日が祝祭ならきっとあたまが爆発してしまう。
納得したのでしょうね。なにやら家政婦さんつきの妙に優雅な待遇みたいだし、もっとも高級収容所なぞと呼べそうだけど、それはやめておいて、家なき子の境遇とかに比べたらありがたき暮らしですから、とにかく幽霊だろうがきっぱり生きている、餓死はしません、日々の糧にあくせくすることなくやり過ごすまで。
なんて一丁前な口をたたいておりますが、実のところ思考をストップさせたかったのです。ちょうど分厚い小説を読み続けるのをやめてしまうように。
あれ、この覚悟さっきも言いましたっけ。やれやれ自覚している以上に困惑は隠せませんね。
ともあれ、お昼ごはんも夕ご飯はそれなりに、お風呂も着替えも、それに物思いすら日常生活の流れとしてやり過ごしました。

問題は厳めしい先生から促されたたユメだった。
考え尽くしたのは謎めいているってことだけで、いざベッドに入ると眠気を駆逐する勢いでユメのあれこれが浮遊してくる。
あれこれって変な言い方だけど、とりとめない映像や画像が飛びまわってみたり、かと思えばじっと一点にとどまってもじもじしたり、それらは不思議な技で重なり合い、乱れ散り、暴れながらも妙な静けさに包まれどこか遠い場所へと運ばれて行った。
まぶたの裏に映しだされている。今度は天井がはっきり見えた。首を少し傾げると壁紙やカーテンの色彩が鮮やかに、しかしどこか物寂しげにささやいていたわ。
えっ、ささやく、、、耳鳴り、透明なガラスに水滴がしたたり、やがて視界をはばむよう記憶の粒子はゆくえをくらますと薄靄にわたしは取り囲まれた。
意識の底辺が心地よく揺れ、次第に夜の吐息を感じていたわ。絶え間ない連鎖、だが網膜はやわらげに役割を成し終え、鼓動のみがベッドのうえを軽く、薄く、羽蟻みたいに這っていく。浅い呼吸は決して鼓膜を刺激しない。
霧の形状はわたしのマント、覚束ないまま見通しのよくない光景を知った。夜気にとらえられている。はじめてのようであってよく慣れ親しんだ暗さ。
死んだ自分で言うのもおかしいけど、生まれてくる以前から常に抱きしめられていて、それは寒気やぬくもりでもなく、風でもない、あたりまえに土や草なんかじゃないもっと違う、でも間違いない何か、暗黒の夜空を突き抜けたどりついた願い、、、あれ、生まれてないのにお願いなんてありっこないはずだ。
文章ならきっとこんな常套句が使われる「そのときだった」でも、そんな感覚とも別な不意打ちに襲われたの。
時間がかかりそうね、なんてつぶやきが絹糸をよじったふうに消されてしまうと、一気に夜のしじまが全身を緊縛し、そのまま宙に舞い上がった。
抜け出たのね、沼底からやっと水面に浮上した。
夢にまで見た異界からの脱出、これは矛盾してます。願望と夢幻がよくかみ合っていないのに、いびつな歓びに溺れようとしている。
それでもいいわ、これこそ高見の見物よ、そんな横柄な態度に踊らされるよう、まわりを眺めてみれば、やはり暗いです。外も夜なんですね。視界がさえぎられているというより、ひたすらまぶたが閉ざれた感じがして、しめつけられるような苦しさばかりに気をとられていました。
そんなものでしょう、いくら悪びれてみたところで唐突な情況をさめた目で見まわすなんて無理、なすがまま夜の深い世界にぽつりとたたずむだけ。
えっ、わたしの足もとはどこに立脚してるの。
そうなんです、外界をつかみとろうと躍起になり、肝心な事態をよくのみ込めてなかった。浮かんでいる、水面に、裸足でした。
パジャマ姿のそれなりの格好、たぶん寝たときのままです。浮標みたいな責務を担ってそうで波間と戯れているような心持ち、必要とされる最低限の意思表示、ああ、なるほどこれが幽霊の身体感覚なんだって思った。
すると蒙昧な目にわずかだけどひかりが灯ったの。あたかも闇夜の海原を航海するひとたちに届けられるだろう少しの明かりが。
きっと誰かがわたしを見ている、いえ、見つけてくれる、そして声をかけてもらえるだろうか、でも手は振ってもらえないだろうな、だって気色悪いし怖いもんね。
あっ、分かった、お化け屋敷と同じ原理なんだ。わたしはみんなから好かれ慕われる存在じゃなくて、怖がられる使命を背負ってるんだわ。
急流を勢いよく下るボートのごとく意想が駆け降りてゆく反面、なんだかとても悲しい気持ちが後追いしてきた。顔さえ覚束ない家族にもし出会ったら、それにとても仲良しだった友達、いたかも知れない彼氏、なんて望郷の念が波打っている。
またもや引き裂かれるんですか、わたしは自問自答しました。ということはこの意識はユメでありながら、覚醒していますね。なんか変だなって思ったけど、それほど不思議ではない。
ユメはめちゃくちゃだけど、会話だってそれらしく成立する場合もあるし、なにより現実の影絵だと思い描けば、迷路へあえて足を踏み入れる危うさは魅惑の道しるべに違いない。
そんな考えがよぎるとこをみると過去の記憶が全部ぬぐわれたわけではなさそうね。やはりどうしてもそこに立ち戻ってしまうのよ。
里心はさておき、頼りない風車のようにまわりだした意識はとびきりとまではいかないけど、新鮮な感情をはらませていたわ。
よく目を凝らす、しっかり耳をそばだてる、口を閉ざす、無心になる。
からだが微かにゆれている。冷えきっていた頬に朱が返ってきたのか、冷気が気持ちいい。髪がそよいでる。

「おはようございます。志呉さん」
「あっ、はい」
ヤモリさんだ。慣れてないにもかかわらず瞬時に目覚めたわ。
「ひさしぶりの登校ですから見送りに来ました。朝食の準備できてますよ」
「わかりました、どうも」
さてとでは新たな人生の、ちょっとオーバーかな、清らかな一日の、うん、これでいい始まりです。

青春怪談ぬま少女〜11

封筒をビリビリじゃなくそれはそれはありがたくね、といっても実際は震えつつ開封しました。
読んで話すほどのことでもないんだけど、、、明日から登校するよう、遅刻は厳禁、きちんと制服を着用する、あれこれ質問しないなどという事務的かつ高圧的な文面でした。
あとご丁寧に学校までの道のりの大雑把な地図が、ちゃんと赤ペンで記してありました。これは少しばかりほっとしましたね。
強制労働者にとって瑣細な指示がときにはうれしさ覚えたりすることあるように。
所詮こきつかわれるのだが自分の身を案じてくれている、なんてね、本当は卑屈な気持ちが過剰に反応しただけに過ぎないだけかも、しかし胸のうちがわずかでも温もればそれはそれでいいのよ。目くじら立てる必要はない。
弱い立場だからこそ、自己欺瞞だって有効に活用しないとね。
電話機のあり方にもある程度了解したわ。ここは自由な世界とは違う。死んで化けて意識が灯っている。わたし死んだら無になるって思ってたから、その無をまた想像したりしてね、たしかこれはまえにも話したかな。
ところがですよ、ゲゲゲの鬼太郎のうたではこんな調子じゃないですか。
おばけにゃ学校も試験もない、会社も仕事もなんにもない、ただ運動会はあるみたいだけど、、、死なないのはわかる、だが病気はどうなんだろう、もしかしてこころの病い、なんかやらかして10年学級に転入させられたのかしら、規則を犯したからなのか、落第に次ぐ落第の結果だろうかと、もう考えだしたらきりがないのでやめておきます。

行きますとも、はい沼高校11年生ですしね。もう行くしかないです。ところで気にかかったのが厳しそうな先生が言ったあの言葉。
「昨夜、ユメを見なかった」
という叱責だった。どうして初めての夜に、、、あっ、違う、わたしは11年生なんだから当然まえにもどこかで寝起きしていた。こんな荒涼とした地の一軒家かも知れないし、あるいは他の生徒たちと寮に入っていたかも。
ユメ、ゆめ、夢、、、こころがけがいけない、これはどういう意味合いなんだろう。
洗顔だけじゃなく熱めのシャワーを浴び、さっぱりする身を愛でながら汚れが流れおちてもそれは肌の表面だけを洗っているだけみたいで、どうもしっくりこなかった。意味じゃない、けど問題には違いない、いけずな先生がああいうふうに念を押すところを察するれば、けっこう大事な規律かもね。宿題やクラブ活動よりも。
冴えないあたまをひねらせていたせいでシャワーから発する湯気がもうもうと立ちこめて、増々見通しが悪くなった。バスタオルで全身から吹き出た汗を拭いながら、小窓を開けたそのとき、さわやかな空気と一緒になってあるイメージが霞のなかから現れた。
鮮明じゃなかったけどあと少しで手の届きそうなもどかしさ、使い慣れた単語を忘れてしまったような浅いくやみ、けれど深みに沈みこんで容易く引き上げられない、そんな名状しがたいイメージ。
焦るな、そう自分に言い聞かせてとりあえず新しい下着を身につけ、人影のない外の景色に目を泳がせる。どのみち明日になればおおよその疑念は晴れるでしょうが、これからまる一日時間に苛まれてしまいそうで不快な気分をはらえない。それでも広々とした大地に目配せする。
焦りは逃げていかない、代わりに災いを流し終えた湯気が大気に解き放たれてゆく。ゆっくりゆっくり、わたしの心持ちなんかとは無関係にどこまでも。
無関係、、、言葉にしたつもりではなかった、なのに軽い強迫観念めいた様相で脳裡に刻印された。
きっと誰かに教わったんだわ。学生だもの当たり前よね、授業で習ったのか、実習だったかも、とにかく答えは学校に行けば分かる。けど何かが異なっている、遠い記憶よ、しかも数日まえに見た夢の情景に似てあやふやだ。夢のまた夢なんだろうか。その眺めだったのかなあ、と思うほうがしっくりくる。
自分でも性格がしつこいのやら淡白なのやらつかみきれない。いえ性格もあるだろうけど問題はかかわり方よ、今こうしてわたしのあたまのなかに居座っているものが問題なの、性格なんて濃度を計る機械の目盛りでしかない、だから杓子定規でしかない。

わたしにも好きなひとっていたんだろうか。毎日毎日思いつめるくらいの相手が、、、よく似てるわ、この情況に、きっとこころときめいていたと思う。華やいでもいたし絶対うかれてた。そんなこと考えてたらなんか切なくなってきた。もういい思考停止だ、記憶だって全部とはいかないけれど、細切れでもいいからいつかきっとよみがえってくるわ。
「あれこれ質問しない」なんて注意書きがしてあったのもそれとなく理解できる。
というわけで、想像してたより煩わしい通達ではなかったので、今日一日どうやって過ごそうなんて急に明るい笑顔に移ろったのでした。
では朝ごはんにしますか。好きなものを食べるとしましょう。わたし能天気ではありませんよ、ただの食いしん坊なんです。
でも昼ごはんも夕ごはんも待っている、あんまり食べ過ぎるのも善し悪しね。ちゃんとモーニング風でいきますか。
どれどれわたしは幽霊である身を忘れ、ひたすら食材を物色し、さほど空腹を覚えてないにもかかわらず、素早く献立を組み立て、我ながら呆れるほどの手際でお日さまに感謝しながら食事をしたのでした。
たいしたものじゃありません。といったらヤモリさんに失礼ですね、おわかりでしょう、野菜スープの残りを温め、あとはハムエッグ、トーストにブルーベリージャムをたっぷり、オレンジジュースに豆乳、ちょっとだけ罰の悪そうな顔つきでバニラアイスクリーム、以上でございます。
あとはソファで優雅に寝そべり、音楽をと望んでみても残念ながらテレビもラジオもステレオも見当たらないから、下手くそな口笛なんか吹いたりして無聊をなぐさめる、なんてね、世捨て人の境地をさまよいながら、まねごと程度にストレッチをして、カッカしてきたところで家中を探険、ところが引き出しのなかは空っぽ、クローゼットもくまなく覗きこみ失望を得てから、思いきって玄関を飛び出しくるりとひとまわり。ああ、ため息ひとつ。
どうせ暇なんだからと洗面所に引き返して、歯ブラシ、歯磨き粉だのタオルにバスマット、新しい下着が置かれていた棚を再確認、黒い制服とは正反対に純白の品々をいくつか手にし、微笑んでから不意に涙ぐんでしまいました。
いいえ悲しいからじゃないの、なんかうれしくてね。だって明日はおそらく色んなひとに出会える。もちろん素敵な出会いばかりとは限らないでしょう。恐ろしい罠が待ち構えており、どんな仕掛けにはまってしまうのか、それなりに胸が引き裂かれそうでした。

青春怪談ぬま少女〜10

世界の豹変に目を見張り、感動にひたっているのは素晴らしいことだけど、お腹がへっていてはままなりません。うっかり忘れていました。昂った気分にも限界はある。こう言うと身も蓋もないですが、裏返せば限りある感動にふたたび出会うには日常の連鎖を排斥するわけにはいかないってことでしょう。そこで、食欲、性欲、安眠欲を重視しなくてはいけません。
性欲は今のところまだ迷妄の域から脱してないと思うのでひとまず脇にずらしてですね、なにより食欲を充たしましょうか。はい、これは大仰な考えではありません、ひたすらわたしに密着した定めなの。
空腹だと安眠のさまたげになりそうだから早速、冷蔵庫とその周辺を探ってみた。納戸にクローゼットも気がかりだったけどね、それは腹ごしらえのあとでもかまわないでしょう。
ヤモリさんが残していったあの、
「今日の分だけは用意させてもらいました」
って生唾が出そうな甘い言葉に操られるようコンロのうえのなべに目は釘付け、赤いなべって想像力を育みますものね。
ええ確かにある種の限定を醸す色合いでもあるんですが、お腹ペコペコのときって希求力をともなって大きな期待が生まれてしまうでしょう。白色、銀色だって文句はないんだけど、飼い犬にたとえるなら待てを言い渡されているみたいでどこかしら歯がゆい。
そこで思いもよらぬ芸当があみ出されたわけ。右手で赤いなべのふた、左手は冷蔵庫の中身をという飢餓情況を大胆に演ずるふうな仕草に苦笑しながら恍惚を覚えるとですね、待つことを知らない欲望は全開し、瞬時にしてお腹におさめるべき食事が決定されたわ。

なべの中身は野菜スープだった。
じゃがいもにブロッコリー、にんじん、トマト、ざっと眺めただけで了解。冷めているようなので温め直す。冷蔵庫の内側は言葉で追うことが厄介なくらいでした。
ありますとも、詰まってますとも、ひんやりと冷気は冷気らしく頬を優しく差して反面、調理の手間を厳かに物語り、それは野菜や肉類に限らず、マヨネーズやケチャップにバター、味噌といった脇役にまで及んでいる。
あたかも薫陶を受けた生徒の趣きだったから敬遠に傾いたのは語るべきもないわね、不良学生のままでいいから素早くがっつりした食べものをかみしめたい。野菜スープに物足りなさを覚えたお腹具合わかってもらえるかなあ。
続いて戸棚をあさると米に食パン、乾麺らが鎮座しておりました。そしてカップラーメン各種が並んだ壮観に上質なめまいが生じた途端、わたしはやにわに金ちゃんヌードルをつかみとっていた。UFO焼きそばとかカレーヌードルにも食指が動きかけたけど、欲望の閃きは殺気さえ帯びており、もし野菜スープがなければあとひとつ食していたと確信する。
炊きたてごはんの支度が予想されるはずだったので、わたしの困惑はかなり見苦しかったでしょうね。
食パン焼かずにかじってもよかったんだけど、べつだん喉が渇いていたんじゃなかったから、なんか口中の水分が吸い取られそうな怖れに振られてしまい、目ざとく見つけたハムをはさんでサンドイッチをこしらえる意欲は失せていた。
むろんカップ麺だってお湯を湧かさないといけないし、その時間を埋め合わせるのはすでに用意されていた野菜スープが並行するからであって、苦行を強いられている重荷はなかった。女子高生らしくサンドイッチを頬張っていればいいものをハムに魅入られたのが運の尽き、好物なのね、家のなかの食材の味覚全部を忘れようにも忘れられない。食の記憶って凄いわ、なんて称賛している間にハムのパックを荒々しく破り、マヨネーズとカレーパウダーをかけてかぶりついてしまった。がっついているわりには一枚一枚しみじみ味わっていたのよ。ちょうど食べ尽くすころ金ちゃんヌードルにありつける心算でね。

この先の無粋な食べっぷりはお話しません。
炭水化物より先に野菜をというふうな意見を何となく覚えているんで、気恥ずかしいわね、あとは想像におまかせしよう。ただ野菜スープが想像してたよりか遥かに豊潤でそれもそのはず、かなり分厚いベーコンのすがたを見知ったとき、感激にむせてしまったとだけ言っておきます。
人心地つきました。しかしながらまだ戸棚の隅っこや食材の点検に意欲を傾けるのはどうしたものでしょう。冷凍庫からいちごミルク味のアイスを引っ張りだしくわえたまま、調味料あれこれとか、インスタント類の確認とか、ああこれも飛ばしますね。
そこで飛んださきはやっぱり眠気だった。旅人が宿の一夜に日頃からの郷愁をどっさり持ち込むように、そしてまどろみと安寧がふんわり枕元に被さるように、わたしのまぶたは緩やかな風のはからいでひかりを閉め出そうと求めている。
同時にあたまにかかった霞はあべこべに鮮やかな彩りを点在させながら、不思議といけないものを見つめている感じにとらわれ、ふと台所の片付けなんかよぎらせしつつ、赤いなべが宙に浮いた幻影に乗り込んで、ますます明滅する景象をつかみとれずにいた。
おそらく意識の反面では入浴は省くとしてもシャワーでさっぱりして寝床に入ったらどう、なんてささやいているのね。まったく、、、旅の宿にだって温泉はつきものよ、これからここはわたしの家なんだから、べつにかまわないんだけど、とにかくはじめての我が家ですしね、けじめというか汚れをきれいにしたいって気持ちは拭いきれななかったのでしょう。
でも眠い眠い、節度ある意識は日々の結びつきを前もって算段している様相で、間延びした顔を認めようとしているのかしら。
「まっ、とりあえず横になってですね、どうせならソファよりベットで、仮眠よ仮眠、さっと寝入ってからお風呂に入ろう」
なんてね、こんな譲り合いが案外はっきりしたかたちでかすめていったわ。
そうと決まれば睡魔に引き込まれる姿勢はほとんど酔客の足取りで、さらに窓のほうを見遣るまでもなく、さっきまでカーテンを染めていた朱は隠れ、どうやら宵闇が外を包囲している。これで大義名分がたちました。おやすみムーミン谷、じゃなかったみどろ沼。
もう沼ではないけど、そうこころのなかでつぶやけたのはこの家のちからでしょうね。わたしは見事どろ沼みたいに寝込んでしまいました。夢なしです。
だからなの、目覚めの悪さがかなりよくなかったのね。激しい自己嫌悪に苛まれ、おまけにからだの節々まで異様にけだるい。頭痛こそなかったけど鈍い気分に全身呪われている感じがして、思わず納戸に身をひそめようと思った。
寝つくまでの茫洋とした幸福感は一転、学校からの通知や監視といったとらわれの意識が毒花のように開花した。結局は仮眠ではすまず熟睡した様子だったわ。カーテンに裏漉しされた朝陽は鋭く、なにやら急いている。
壁掛け時計だってこんな分かりやすいところで時刻をしめしている。えっ、9時15分、これってもしかして寝坊、学校ってもっと早起きしないといけなかったのでは、、、

そのときだったわ、玄関口でジリジリって音が鳴り響いたもんだから、とっさに電話のベルかなって案じたんだけど、見回しても電話機はなく、音も外から伝わってくる。重たいからだを引きずって外に出れば、郵便受けにそのすがたありだったのね。来ましたよ、早速、学校からの案内書、寝坊したから起こしに来たのならその配達人はどうして声をかけなかったんだろうか。
待てよ、通知が届いたからといって今日から登校しなければいけなってわけでもないわね、どうもわたしはものごとを都合よく考える傾向があるみたい。昨日はあんなに感激した太陽に挨拶するのも忘れ、すぐそばの郵便受けに手をのばす。
ウキウキではなく、しかしトボトボでもない、しかるべきことをやり遂げる、実際は渋々なんだろうけど、相変わらず人気のない景色を横目に封筒を取り出した。
志呉由玲様、間違いなくわたし宛てだ。住所は数字が並んでるけど、たぶん登録証のそれと同じだと思う。
またしてもジリジリ、えっ、左右にかぶりを振ってみたが誰の影も通らない。うろたえました。だってその響きは家のなかから聞こえてくるのです。いい加減にしてよ、もう、携帯電話を見落としたってことね。怒り心頭まではいかなかったけど、何故かといえば不安のほうが勝っていたし、探偵ごっこじみた持ってまわったやり口に圧倒されていたからでしょう。
そして重いからだでわざと床を踏みならしながら部屋に入ると、電話のベルらしき物音はなんとクローゼットの内側から鳴っている。そうね、まだここを確かめてはいなかった。怖いもの見たさなんかじゃない、こうなったら真犯人をあばく心意気がわきあがってきたわ。
さっと扉を開くと変哲もないただの受話器がまるで蝉のものまねをしているふうに鳴り響いている。それと黒い制服に黒いかばん、それらにべつだん驚くことなく声の主に迫った。
「もしもし」
「志呉さん朝寝坊なの、もう一回10年学級に戻りますか、すぐに顔を洗って通知をごらんなさい。それとあなた、昨夜ユメを見なかったでしょう。いけませんね、そういう心がけですと、わかりましたね」
かなり厳めしい女の先生だ。だがその容貌は浮かんでこない。
「わかりました。顔洗います。ちゃんとやります」
あわててそれだけ言うと、
「では」
受話器の向こうから気配が消えた。
黒づくめの身支度品にやはり見とれていたのでしょう。だってこの電話機はありふれたものなんかじゃない、ボタンもダイヤルもない、同じく真っ黒だから見逃したの、、、こっちからは連絡できなってシステムなのね、そう思えば合点がいく。
では仰せのとおり顔を洗ってきますか。わたしは封筒を握りしめてはいなかった。むしろ非常に有用な書類を授けられたに等しい丁重さをこめ、手のひらにはさんでいました。