美の特攻隊

てのひら小説

22世紀の夢遊病者

夕暮れどきの浴槽にはとけおちそうになる甘い果実があらかじめ浮かんでいるのか、あるいは沈める秘宝が夜明けを待ち望んでいるのか、薄く透けた湯気が窓外へ流れると、反対に生真面目で慈愛をはらんだような冷気が頬に降りてくる。
その刹那、背中から首筋あたりにかけて郷愁がわき起こり、半ば忘我にいたるのだけれど鏡を曇らした様子が遊戯めて見えるせいなのだろう、旅情をかすめた心持ちはさほど平静さを失うことなく、いや、むしろちいさな高揚に支えられているみたいで、甘い芳香は初冬の外気に被われ、無味な情趣がほのかによぎってゆく。
無味といってもけっして味気ないわけではなくて、そう、ちょうど淡白な白身魚を口にしたときに似た軽減されることを願っているふうな充足感であり、新たな食思は不動の位置へとどまらず、さりとて一皿山盛りをたいらげたい思いは断ち切られもせず、微かな望みが透明度を増していくのである。あてなき旅に出かけたい澄んだ気分のように。
風呂場の小窓から覗ける空の色ほど明確なものはない。これは気分とはうらはらな視覚に促されているようで、湯加減に反撥する冷気の訪れはくだんの旅情を含みつつ、ふたたび現実的な輪郭を描きだす。
その臨場感こそ西日が届けてくれる贈りものに違いない。
黄昏のむこうに明日のあることをそっと知らしめるのであろう。


夢の作業にのめりこみたい一心で湯けむりがより濃くなればなぞと、額からぽろぽろ汗がしたたり出したころには創作の案にもやがかかり、見上げた小窓の空模様に願いを託せば、意想にあらがう勢いでそろそろエアコンのフィルターを清掃しておかなければ、寒さはつのりだし必要な務めだからと、そんな方向に考えがなびき、ふと湯船にひたった下肢をみつめては、なるほど身体もさっぱりして疲れもとれるのだから、こうした念がよぎったのかもっとである、あとで掃除しておこう、ちょうど編み目をかいくぐる様相で夢想をさえぎった。
しかしタスポを持った少年はどうしたらいいのか、父のおつかいでよしとして、また使い方も分かっているとし、だが、たばこを手にした直後自販機のまえへ出し抜けに現れた巨大な顔をどういうふうに解釈すべきだろう、湯気のごとく希薄でないはっきりとしたあの顔を。

見知らぬ大きな病院で迷ったあげく、入院患者に仕立て上げたまではよし、そろそろ病室に戻りたいのだけれど、東側や西側の病棟に惑わされている内心が妙に心地よく、また高所からの眺めに翳りをおびた愉しみを感じてしまい、そう慌ててみたところで別段おちつくわけでもないので、あくまで形式的に近くの看護師に所在を尋ねてみたところ、たぶん向こう側の病棟だろうと明るく応えながら何かひとことふたこと喋っていたのだが、以外にもその看護師が高校の同級生であるような気がし、よく顔を見つめれば間違ない、声の調子にだって聞き覚えがある、どうやらこんな場所での邂逅に胸がさざめき、更にはすこし奥のナースステーションで大きな地図をひろげている患者の真剣なまなざしに同調したにもかかわらず、迷路をさまよう心もとなさが他人事のように思え、看護師に礼を言ってはなれ際に彼女の名を呼んでみたら、
「私にだってわかっていたのよ」
と明朗な言葉が返ってきた。

タスポの少年は今日も大きな顔と出会うのだろうか、その心情を恐怖だけに縛りつけるのはあまり本質をついていないような気がして、ゆっくりまばたきを行なえば縹渺とした曠野が湯けむりのなかへにじんだ。

ノスフェラトゥ

有益な情報は尽きた、、、いつか訪ねてきた青年に、関心事はさておき澄んだ瞳にくすぶる仄暗さをもち、身震いを闇夜に捧げようとしている相手にむかってフランツはそう答えた。
さながら叙事詩のピリオドにふさわしい響きをもたせたつもりだったけれど、実際には隣家からもれてくる夜想曲のような静けさを含んだ名残惜しさがこめられていた。
蟄居の身に甘んじながらも胸の片隅では廃墟と呼ぶに似つかわしくないこの屋敷を想えば、奇妙な眼球の動きにとらわれてしまう。
しかもそのまなざしは稀な来訪者のすがたをたやすく通り抜け、霊気となって大理石の床に更なる冷ややかさをもたらし、悠久の彼方を夢みるのであった。不遇をかこつ情況が結果であるとは言い切れない、何故なら冷徹な意志が足もとへ狂わせた可能性を決して軽んじるべきでないからである。
かつての狂気こそ最良の条件であったことにフランツは異存はなかった。
落胆の色を隠しきれない青年の面持ちに向って雀躍を禁じ得なかったのがなによりの証し、それはあたかもかつて執事を努めていた頃の記憶と入り交じり、我ながら陰険な心情をくみ出したのか、わざとらしく舌打ちをしてみせる不埒な愛嬌をこぼした。
主人への忠誠は悦楽と引きかえであった。

「私の名が偽名であると同時にあの使い古された良心とやらは影をひそめ、宿痾が光彩を放ちはじめたのだ」

フランツは自らの放浪癖を逆手にとり、矛盾ともみえる安住の地を見出したのである。
それが廃屋の気配を醸し出そうとも、朽ちた日々に侵蝕されようとも、鮮烈な想い出がある限り、真紅の裏地を配した暗幕は開き窓を遮蔽する宿命に忠実であり続けた。
城主なきあとの職分が流浪の気性に歯止めをかけた現実を認めないわけではなかったし、老齢にいたった身上のなりゆきとしてみれば当然の帰結であったことに間違いはなかろう。
ただ陽光のまばゆさをさえぎる無辺の闇を好んだフランツにとって、覇気の衰退や加齢は然したる意味をもたなかった。むしろ本来の性をむきだしにする野獣のような不覊に祝福され、その歯牙は夜ごとの夢をはぐくむことを忘れはしなかった。
それゆえ番犬シシリーの愛くるしさに隠れた放埒な稟質を見逃しはせず、うわべでは気さくな素振りで接していたが、これはなにもシシリーだけにとどまらず他者すべてに対し言えることであり、孤高を恃みとする心情からしてみればごく自然の振る舞いであった。
一日遅れの手紙を開封する焦りを周到にごまかした羞恥にさらわれない為、文字と一緒に指先をまるめるように。

フランツにとって言葉は必要でないのか、そんな疑念を起こすまえに執事としての職務へ目を向けてもらいたいところだが、残念ながら委細は見通せるはずもなく、その怜悧で分をわきまえた暗躍ぶりはいうに及ばず、才気にたけた生業とだけ記しておくのが関の山、煩瑣でいら立ちを催す日々の過ぎゆきの裏に愉楽を得ていたことは否定されるべきではない。
とにかくフランツに不可欠なものは暗闇にしたたる隠れた情念に他ならなかった。
山稜よりのぼる朝陽のまばゆさが城内に仕掛けをもたらそうと躍起になったとして、ここの住人たちはさしずめ素肌にまとったマントをひるがえす所作をしてみるだけで、夜の霧を呼び寄せ、暗澹たる喜悦に近づくことが可能であったから、執事の体面はことさら揺らぎもせず、自若たるたたずまいを保てたのだった。
貴重な葡萄酒の香りと切り分けられた肉塊、永遠と引き換えに死神を駆逐した報酬はありあまる栄光であり、柱時計は緩やかに、そして性急に振り子を揺らしていた。
それでも老いはやって来る。永遠という高貴な代物にさえ腐蝕の手はのびた。
善人の一生にも悪鬼の生涯にも均一にときは流れる。いつかの訪問者はフランツを題材にした物語りを書きたかったそうだが、おのれの血涙だけで綴れるほど人生は甘くない。そう他者の血を求めなくしては。

 

 

メデューサ(後編)

見果てぬ夢を思い浮かべてみる愉悦が、いかに艱苦とは無縁の居場所でつぼみをひろげようとしていたのか、当時のジャンに限らずとも、薄っぺらでありながら強固なその花弁はとりとめない揺籃からこぼれ落ちたであろうし、おのずと近づいてくる恋情の魅惑に淡いあこがれを抱いたとして不思議はあるまい。
むしろ、未知なる明日に過剰な期待を寄せており、しかし反面では細心の紋様が渺然と寝室に満ちていたのだ。
童心の仕草は徒為につき動かされているかも知れないが、ちょうど草の根をかき分けるよう地面を這いまわる昆虫の姿態にある種の感銘を、それがたとえ意識に上らなくとも、注がれた視線は俯瞰の領域とは異なる穏やかな軌跡を描くのであろう。

さてプルート老人とジャンとのふれあいがどのような間合いと情調を生み出していたかを想像するに、とりわけ発端やら成りゆきを述べることは、この短い物語りにあまり意義をなさない。
なにより端的な石化が可能であると信じる畏怖ゆえに、また背馳なのだが朧なる時間の過ぎゆきに対し、あえて委細が省かれる暁光を想わせる自然によりかえって性急な、そうあたかも暮れ時のすべり台に興じる体感を想起せしめ、その場面は玲瓏たる、そしてもっとも香しい意趣に支配されるからである。

ものごころつかない折から女の子の衣装をあてがわれていたジャンにとって、その後の抵抗はあったにせよ、ある距離までの許容範囲でしかない近づきすぎることへの思慕は、明度がどうあれ異性の蠱惑である以上、仰望にも似た欲求はまだ明快な輪郭と落とし穴のような抜けを覚えず、月並みな言い方をすれば、自らのなかに色香を見出すしか手だてがなかったのだ。
古書に現れたゴーゴン姉妹に対するジャンの反応は、便宜を承知のうえで語るなら、それらはあらかじめプルートの胸におさめられており、すでにあやかしの名分は認証され、ゆくえを見失うあやまちが入りこむ余地はなかった。
つまり少年のまだ未分化であるこぼれる情欲と、老人の枯れ木へしたたり落ちるような雨露は陽光と月影の関係で結ばれ、その交差する時間の重なりに歳月はしりぞくしかなかったのである。夢想が宙を舞えば、いわれなき下半身に屹立するものは同等の価値を放つしかなかろう。

衆人の世評とは無縁でありつつ自身の粉飾に金輪際いや気がさしたわけでもないジャンの心持ちを見抜いていたプルートは、自傷によってすべてが払拭され生まれ代わったとも、割礼にならった風習を無意識になぞったとも考えておらず、逆に冴えわたった月影に照らされる青白きかがやきだけを見定めた。
余人の知らぬところで少年は女装のきらびやかさを内心こころよく感じていたに違いない。
現にあれだけからだに触れられるのを嫌ったにもかかわらず、ふともらしたゴーゴン伝説に関する謂れを優しいまなざしで詳しく聞かせたことにより、ジャンの警戒心は解かれ威勢よい爆竹よろしく炸裂し、そしてその硝煙を含みいれるがごとく肉厚の風船を膨らませたのだった。
醜悪な容貌に怖れをなす一方で、着飾っては薫香に包まれたひとときを忘れるはずがなく、まわりへの反撥はいわば凡庸な態度に過ぎないことを胸の片隅で心得ていたのだ。
少年が欲した誉れ、それは自分の外へと流れゆく芳香であり、かといって対象をかたち作る条件へ意志を傾けるには到底およばず、ほぼ羞恥に被われた野放図な希求であったと思われる。

ジャンは老人と親しくなるにつれ、彼の名をあやまってピエールと呼ぶことが度々あったけれど、老人は別段いましめるのでもなく、ただ苦笑して少年の遊戯にひそんだ陰りと栄光をこころのなかにそっと見つめた。
その栄光とは寡黙なひかりを浴びてまばゆく、プルートが眠りつかせてきたかつての郷愁に甘く苛まれる危惧を避けるためにも、ついぞナルキッソスの伝承を口にすることがはばかられた。
理由はプルート本人の変容願望が樹液のように頬をつたうのをためらったからで、それは経年の知恵だと心得て貫目が保たれるのを望んだに他ならない。
増々もってゴーゴン伝説に収斂してゆく様は火を見るより明らかで、プルート老人はピエールと呼び間違えられる毎に股間を押さえつけるふうな手つきをしめし、またジャンは見るものをして一瞬で石像に変えてしまう妖術に酔いしれ、異性が自らの裡に宿っている幻想を決して振り払おうとはしなかった。

やがて姉妹のなかでメデューサが海神ポセイドンの愛人であることを知るに至り、遠い憧憬は遥か雲海を越え大海原へと飛躍してやまず、神話は血肉となり果て、老人の若かりしころを夢想しはじめたのであった。
ピエールという呼び名はそうした事由によるはにかみだったのかどうか、ただこの見解には穿ち過ぎのきらいがあるので、安易に情欲へと排水を流すような無粋は避けたいのだが、鏡を用いての大団円にジャンが驚喜した事実を無視することは出来そうもない。
硬直する肉体を賭してその首をはねる果敢で頽廃によって突き飛ばされる情動は、恍惚とした輝きにあふれており、また陸離たる紋様の奏でる通底音に身を震わさずにはいられなかったからである。

おさなき日々の戯れにはいつも欲情がひそんでいる。
燦々と上る朝陽ではなく、鉛色に暮れなずむ天空を朱に染める夕陽こそ寝屋にしのぶ官能に導かれ、禁断の扉に透ける裸体は仄かでありながらゆるぎない衝動を保持し、たそがれのまどろみと拮抗する。
鏡よ、鏡、、、老いたプルートは若い盛りのジャンを見越ていたのだろうか、幼年の健気で陰湿な面をはらんだ性質を知悉していたのだろうか。
奇しくも積み荷をめぐって諌めた言葉は、記憶のなかに埋もれた書物の断片に、あどけなさの裡へ巣食った美しさに、聡明な瞳の陰に燃えた情念に、そして無骨を気取った小胆の置きどころに届いたのだろうか。
老人は北極星のまたたきを忘れたかった。少年は忘れものを思い出せなかった。

 

 

メデューサ(前編)

北極星の瞬きが港に落ちるころ、泥をかぶった酒場の裏に転がることを忘れた樽の影に、その奥へどっしり腰をすえた煤けた瓶にたまった汚水の上に、かがやきを失わないひかりの矢が降り注ぐと、ふて寝をきめこんでいた野良猫や、酩酊しても笑みをしめさない呑んだくれの人夫らの顔つきにいくらかの意欲が戻ってきた。
もっともこの場合、意欲というのは樽底へ残ったエキスが発酵にともない効能あらわにしたのものでも、通り雨で洗い流された汚濁に感心をよせるものでもなく、むしろ臨終間際の病人の眼窩ににじむ体液に似た苦い心地を含んでいた。
船出を待つ錨がわずかに揺れているのは、昨夜の嵐の名残りだろうと感ずるまでもなく水夫たちはそれぞれの身支度に余念がなかった。積み荷を検分してまわったジャン・ジャックの轍を踏むまい、錆ついた良識だと嘲られようとも己の運命が左右されざるを得ない怖れから鑑みれば捨ておくことは出来ない。それがプルート老人の提言であった由縁は周知のことである。
しかしジャンのとった醇乎たる判断を、その顛末のすべてを知る者はおらず、記された航海日誌から読み解ける情況よりことの次第を推量するしかすべはなかった。
奇態な風聞につきものの邪性をまとった暗幕にはもっと深い陰しか見出せず、そして困り果てた興行主が姑息に用いる粉黛すら幻影に過ぎず、果断なジャンの意志は波打つ右舷にむかって揺れる錨の静けさをなぞっているかのようであった。
口調はいたって穏やかだが真率なまなざしを絶やさないプルート老人の助言もまた海底の藻を想わせる揺らぎになった。

「わしはおさない時分のジャンをよく遊んでやったよ。けど抱っこしてやろうとすると暴れだすから始末におけん。おまえさんらには想像つかんだろうが、それはそれは見目麗しくてな、まるでアフロディテかと親族はもちろんまわりの人々も賛嘆しながら口にしたものだ。で、可愛さからみなが頬をなでたりキスをしたがったり、天童をあがめる按排で囃し立てる。それが次第に鬱陶しくなったんだろうな、髪も肌にも触れられるのがたまらない様子でしまいにはたとえ母親だろうが見知った顔だろうが、近づくのでさえ露骨に不快な視線を放つようになった。
当時は両親が骨董店を営んでおり、ジャンは格好の着せ替え人形にされていたのさ。ああ、この目で何度も見せてもらったよ、長い金髪に結ばれた緋色のリボン、洋服はもちろん女の子の着るフリルつきのドレスで、時代がかっているせいか、さながら舞踏会に繰り出すお姫さまのようだった。
ある日にはあえて趣向をただし、長い髪を束ねバロック風の楽士を演じれば、飾り窓から床に落ちるまなざしには優雅な調べがともなって陽光に溶け合い、しかも幾分か背伸びした形跡をまるで匂わせず、反対に華やかな青年の持つ美麗な香りだけが足もとから胸のあたりへ漂った。偽装を見破ろうなんて下心を抱く者なぞはおらん、言うまでもない、古風な趣きに包摂される悦びを打ち壊すなんて徒爾であることを心得てたからな。
案の定ジャンは看板娘ならぬ看板少年になった、そして突然ゆくえをくらましたのさ。
二日後に悪びれた顔つきもせず家に戻ったジャンは誰それと喧嘩をしてきた、そう言い張ったけれど、あれは喧嘩の傷なんかじゃない、おそらくおのれでつけた勲章のつもりだったのだろう。わしはその兆しを勘づいておったよ、なに、ひとり波止場で空瓶をたたき割るすがたをよく見かけたからな。あの額の深い傷痕は瓶の破片で斬りつけたに違いない。
それからのジャンは実際に蒸発するまであの通りだったし、、、おっと、わしは遭難したとは信じておらん、あくまで蒸発だ。どこへ消えたって訊くのかい、それがわかるくらいならこんな話しはしないだろうよ」

おさないジャン・ジャックは謂わば素晴らしい環境に恵まれていた。
港界隈における他の子供たちとは別の世界に取り囲まれもて囃されたのは、プルート老人の言にすでに現れている。
しかし骨董のなかの逸品がときに鈍いひかりと鋭いひかりを交互に発するよう、あるいは刹那の感興を数歩しりぞかせる猶予をあらかじめ備えており、それが陶冶による仕業であることを悟らせないあたり、雁行の序列を模した斜の自覚がなにより先んじていたと思われる。
つまり隠顕する妙味をあたえられていたのだ。帰順まで至らなかったわけは傷痕の有無にかかわらず、ジャンが成人するのちまで夢想から逃れる算段をしなかった事実ひとつでこと足りるであろう。
老人は否定するが本当に彼は遭難しなかったのか、その問いに答えるまえにある情景を前面に引き寄せなければならない。仮に魔手に加担し浄福とは異なった色彩に溺れようとも。

ジャンの店は二階奥まで品々が陳列とはいかないけれど運びこまれており、まだ荷を解かれないものまで入れると果たして収拾がつくのかと傍目には覚束なくなる状態だったので、片づけの手伝いとうそぶき(たとえ愛児であろうとも遊び場として解放されなかった)お仕着せの類いではない、心底から夢心地のする飾りはねを物色しては、それらはなめし皮の眼帯だの、今にも朽ちてしまいそうないかがわしい土偶だの、あきらかに壊れている朱色の横笛だの、ねじまがった銀製のスプーンであったが、何より木箱に平積みにされた古書の頁をめくるのがこのうえない楽しみとなった。
整理された書籍は種類別にまとめて一階の脇棚に並べられたけれど、木箱の中身はまだ埃がつもったままで、目を細めては思いきり息を吹きかけ表紙や口絵を開き、怪異と神秘が織りなす暮色の裡に点綴する中紅を浮かべてはしばし時間を忘れた。
ジャンが極めて頻繁に読み耽ったのはギリシャ神話に関する、わけてもゴーゴン姉妹に関する伝説であり、他の妖異譚に惹かれる素振りをわざとらしく示さなねばならないほど、禁断の穂波にとらわれたのである。味到するべきものは絡み合った粘り気であり、恐懼を厭わぬ魔性の顕れであり、頽廃へのあこがれであった。

鏡のなかに現れるたびに細やかな儀式がくり返される。
それが太古の昔から鏡に宿った霊妙なる為業であるのか、自惚の中枢に手をかける所為なのか、あるいは同時に両者が混じり合った結果、毛細血管に指令が下されるよう厳密な、極めて生理的な自然の発露であるのか、その謂れはうらはらに儀式という合わせ細工の機能が一番よく理解しており、ひかりの加減や陰影の満ちかたを深く慈しんでいたのだ。
目の当たりにする自己像の硬直してしまう過程が刹那であるゆえに、石化は歴史を否定する。
まだ年少のジャンが果たしてそうした観念を擁していたのか定かではないけれど、すくなくもプルート老人の説話によって、こっそり胸にしまっていた秘密がいとも簡単に露呈してしまうとは考えも及ばなかった。

 

 

青春怪談ぬま少女〜19(最終話)

あきらめとつぶやいてみましたが、登校2日目なのにこのありさまではどうしたって意気消沈です。
帰りの足取りの重かったこと。その重さに様々な思惑がかぶさってくる。あまりに分厚くしかも煙り状にたなびいているので、あたまがうっすら痛くなってきました。
そんなさなか小さなトンネルみたいなひかりがぼおっと遠くのほうに見えたの。これはひよっとしたら死者の門出、生命の危機にひんした際によく体験するってやつでしょうか。とうにわたしは死んでいるのにね。
えっ、あのひかりってもしかして10年学級の入り口、だとすると、、、お迎えでしょうか、これはたいへんだ、とにかく急いでお家に帰ろう。
ヤモリさんはいないだろうな、きっと。あのひとだってたぶん沼高校の雇われ人なんだから、こんな気ままなわたしの面倒なんかもうみなくてかまわないって言われてるんでしょうね。

食欲は全然なかったけど、冷蔵庫や戸棚の中身がふんわりよそ事みたいに、そう綿菓子がクルクル次第にできあがるように上半身をかすめて行った。これが生存本能によるものだったらたいしたものだわ。
なんてこと考えているうちにかなり早足だったので、お迎えを振り切ったのだと動悸に証明をあたえ、ひとまず無事に帰宅することが叶いました。
実をいうとこっそり抹殺されるなんて怖じ気が生じて、それはそうでしょう、学校側からしてみればですよ、わたしは不穏分子あつかいじゃないですか。誇大妄想と思われてもかまいません、怖じ気は怖じ気です。幽霊は死なないのでしょうけど、意識が消え去るのがとても不安で仕方なかったの。
こんな危機的情況にでもしがみつきたいのだろうか。違う、むこうがわたしを放してくれないのよ、そうだ、これって今日の意見そのものを代弁していると思う。ちょうどこの世界から出して欲しいって願った気持ちとまったく同じで、狂いは狂いなりに正確な道しるべを指し示している。
謀反なのでしょう、たぶん。沼の支配人の逆鱗に触れる謂いだったのね、だからといってわたしは観念するべきなのかしら。飼い犬のように従順に、奴隷にように寡黙に、あやつり人形みたいにせわしなく呼吸しているだけで良しとするの、あの誓いはどうなったのよ、そうわたしを殺した憎い犯人に仕返ししてやるって信念、幽霊としての立場をもってすれば貫けたかも知れない。
でもあやふやだわ、犯人にどう報いればいいのかよくわからないから。憎しみだけではどうすることもならないのよ。忘れていたわけじゃないけど喜びも悲しみも含め、すまし顔の諦観に寄り添うことだけに託してしまって、まるで空砲みたいな響きをあがめるだけで、感情にはふたをしてしまったような気がする。むろん安全弁を胸の底で作動させる怯懦はなおざりにせず。

はっと我に帰ると家に灯りが、、、えっ、ヤモリタマミさん。
そのときだった。校舎の目立たないとこにいた犬の石像がいつの間にあとをついてきたのか、トコトコって脇を歩いている。ちょっといったいどうしたの、あんた、びっくりするじゃない、これしきの魔術が降り掛かったとしても今なら瞠目に値しないけど、目立ち過ぎよ。もう少し神妙な気配をかもして欲しい。
とは言え、一瞬降ってわいたヤモリさんへの期待を忘れるくらいだから、いや、その反対だ、期待が過剰になっているせいで石像が着いてきた。そうあるべきだと願われた。
そんなやるせなさを引きずっている自分が腹立たしくもあり、甘美な哀しみに救いを見出そうと努めている反面も了解した。さながら震える声を聞きとろうとする目つきが虚飾にさいなまれているように。
あいさつのお礼のつもりだったら気にせず学校に戻りなさいね。
わたしは決して言葉にしていなかった、なのに犬は答えたの、なんとひとの言葉を喋ったのです。

「ぼくは番犬なんだ、で、仕事をあたえられた。案内役を努めさせてもらうための」
「案内って、まさか」
「当然だろう、戻るのさ」
「やっぱり10年学級」
はじめて石像に口をきいた途端、からだ中のちからが抜けてゆくのを感じ、あれこれねじれた想念が氷解し、代わりにヤモリさんの不在が明確な影となって立ちはだかった。
「すべてが不幸に結びついているとは限らない、ものは考えようだよ」
犬の石像を凝視する。にわかごしらえの表情に不気味さはなく、その形象に即したふうな疎外された親和がこじんまり整えられていた。
「わたしはものなんかじゃないわ。死んでも人間、まだ少女よ。ところであんたオス犬だったのね、たしかめる手間がはぶけた」
ああ、なにを口走っているのだろう、無期懲役の判決を下されたに等しい状況にもかかわらず、、、手間と悠長は相容れない。またあたまが混乱しはじめたみたいです、これは逃避的思考に違いありません。
すると石像は張りつけたお面の陽気さから、わずかだけ本音の寂しさをもらし、
「オスだよ、わんわん」と軽やかに意思表示した。
「わかったわよ、犬らしく鳴いたりして、もう」
「だって犬だから仕方ないさ」
そう言うと、どうしたことでしょう、それまでの石像の表面はまるでかぶりものだったのか、一気にひび割れ、純白の毛並みをもった愛くるしいすがたに変身してしまったのです。
驚きよりさきに胸の奥底から生暖かいものがこみあげてきた。
「可愛くないなんて、ごめんね」
「ぼくのことを忘れたの」
「えっ、もしかして」

記憶の欠片がより小さくなったり、かと思えば途方もない方角から大きな霧状の束が押し寄せてくる。
ぼんやりしているようだけど、あたま全体が器具で固定されたような不快さと、また逆につかの間だけの安心を得た感触に縛られ、そしてひも解かれては薄もやの向こうにひかりを見いだす。
さっきの失意のどん底とは別の淡く柔らかなかがやきに、わたしは吸い込まれていった。
「シシリーね、わたし生き返ったの」
「ニーナお嬢さま、思い出してくれましたか。でもなんと言っていいのでしょう、けっして生き返ったわけではありません」
あまりに懐かしいシシリーの記憶がつむじ風のように舞い上がった。
「そうね、シシリーのこと、幼い頃だったから忘れてた。わたしは生きているよ。ほら意識だってあるじゃない、どんな意識だろうが、わたしは受信機なんかじゃない、ちゃんと返事もできるし、記憶だって取り戻せる、ニーナ、それが生前の名前なの」
わたしの口調はついに本当の震えを覚えた。
「質問は禁物です」
「やはり厳しいのね」
「あちらのふたりも一緒にお嬢さまを迎えてくれます」
ひかりがあふれたと感じたのは家のドアが大きく開いたからだった。
一瞬退いたけど、ふたりの穏やかな笑みにほだせれ、なにより自分自身の境遇をこれほどしっかりつかみ取った場面がなかったから、わたしも笑顔で応えました。
「お嬢さん、こちらがなまずおじさん、そしてこちらがカエルおばさん」
「わたしら、そう呼ばれていますのよ」
本当になまずとカエルの顔している。でも声はとても優しかった。
「どうもはじめまして、10年学級までよろしくお願いします」
「まかしときないさい。うんと勉強できるよう扉を磨いておいたよ」
「扉をですか」
なまずおじさんの話してる意味は理解できなかったが、いずれ身にしみて分かるのだろう。
「ヤモリさんが料理を作ってくれたよ。お別れがつらいからって帰ってしまったがな」
「そうなんですか」
哀しみにひたる暇はなかった。だってとてもにぎやかですもの、この雰囲気。
「さあ、お家へ入りましょうね」

 


おわり