美の特攻隊

てのひら小説

こもれび

以前懇意にしていた男に列車のなかでばったり出会った。
その面立ちはこころ踊る音楽に浮かれていた頃のことだからよく憶えている。あれこれ互いの近況を交わしながら列車に揺られているうち、あの懐かしい旋律も幾度となく頭をよぎってゆくのだけれど、同時に話の内容はどこか希薄な思いがして、車窓を流れゆく風景の色相にさらわれたのか、次第に眠気をともなったもの憂さへと沈みこんだ。
「引っ越したから今度うちへ遊びに来てくれよ」
彼の口ぶりで残ったのはそのひとことであった。
重くなりかけたまぶたの裏に一条のきらめきが射したようであり、それはこたつでうたた寝しながら尿意をもよおし目覚めた直後に怪獣映画がテレビで放送されることを、ふと忘れていた小さなよろこびのあどけない記憶へと結ばれる。
「今日はちょうど妹の里帰りでね。少しばかり物々しいけど、まあ気にしないで」
こんなときにわざわざ足を運んだりしたのだろう、少しばかりなどという代物ではなく、とんでもない情勢に面しているではないか。
まったくの初耳であったけれど彼の妹は某国の要人に嫁いだそうで、聞けば誰もが認めている名であり、物々しさを通りこし、家中はもちろん近辺にいたるまで厳重な警護で固められているのが、様子をうかがわずとも明確に伝わってくる。
しかも身内らしき人々はこたつを囲んでくつろいでいるのか、緊迫した意思を抑えつけているのか、よく判読できない表情を張りつけたまま、あいさつやら談話に投じようと努めていた。
相当な居心地のわるさを問うまえに、こたつがあるこの客間は私の生家に酷似しており、ガラス戸越しに整然と映る機動隊や警官の背から発せられる威圧の影も加わって、過ぎ去った日々の想い出はより濃い密度に高まらざるを得ず、軒下から玄関、縁側、裏木戸は言うに及ばず、仏間や二階の各部屋、半分自分の勉強部屋であってそうではなかった空間、むき出しの心情が鎮座し続けていた白濁した場所、そんな想念を息吹とみなしていた押入れの奥行きなどが、郷愁にゆさぶり起こされるのであった。
「さあ、いらっしゃったようです」
誰が声にしたのかわからない。
たなびく気分は霧散しつつも、生家が勝手に流用されている野放図なありさまの驚きから解放されることはなく、むしろ腹立ちがたおやかな掌の慰藉を受けているのか、おそらくそれは昔日、自治会やらの名目で近所から、かと云ってさほど見なれた顔ばかりに限らず、それぞれが寄り集まってくるどこか祭りめいた晴れ晴れしい雰囲気に似ていて、さらに追思すれば、いつしかの夜店へ灯った裸電球のいましめを裡に含んだようなきらびやかさが胸中にしみわたる。
決して暗がりへ色彩を満たすだけの好奇からではない。
見知らぬ他者をどこかで厭いながら、一方では取りすがりたい卑屈な心性が葉擦れのごとく揺れていたのであろう。
佳局はこれからに違いないのだから、酒宴の陽気さに少しばかり(ここで彼のもの言いが嫌味なく飲み込めた)退いた加減はおごそかな空気で保ち背筋を伸ばすしかあるまい。
霧の立ちこめた水面が開けていく風情を宿した貴婦人なる妹のあらわれは澄みきっていた。
ところがそれからの成りゆきはかなり不明瞭で視界に浮かびあがった映像は、かつての怪獣映画ほど鮮明ではなかったし、先行きを案じていたのか、どうやら焦燥的な結末を迎えたようである。
凛然とした妹はこたつに近づいて間もなく、トイレに行きたいと静かな声をだした。とっさに私は彼女の兄の顔色を追いかけたのだがよく考えてみれば、その姿などはなからこの家になく影絵でしかなかったのか、どこにも見出せそうにない。危惧とは別の確信であった。
私は当然のこと焦りはじめ、高貴な風貌と誉れを遺憾なくまとっている妹に対し、得体の知れない親和を覚えたので気をまぎらわそうとして眼に入るだけのひとの頭を数えようとした。
そんな羞恥を押し隠した私とうらはらに兄の影すら持たない妹は、なぜか洋服も下着も脱ぎ捨て全裸のままトイレへ駆けこんだ。

かくりよ

もどかしいほど静かなのね。
ええ、とてもゆったりとしたさざなみが押してはかえし、かえすさなかあなたの産声をどこか遠くに耳へしたような心持ちが生まれて、それはそれは不思議な響きがするのです。
でも生まれたてすぐさまの音色なんか、案じてみてもとりとめないですし、かりにそっと不穏の種が軽くはじかれたのか、あるいは地平の貪欲さがにじみ出たとして、今の気分からすればさほど大仰なことがらではありませんわ。
昨日をふりむくようすっとまなざしを投げ遣ってみたところで、それは幻聴がばねをゆるめたおとし子だったかも知れないし、第一ゆくてをさえぎる風のささやきがあなたの所在に与しているようで仕方ありません。
ただ夜風を背にうける不遜な意識が鼻孔へ微かな反乱をもよおすときだけ、まとまりのつかない感覚にいざなわれ、ほの明るい静寂のなかにたたずむ異形がわたしをとりこにするのでした。


幸吉は湯女というものを知らなかった。
適当な知識くらいははあったかも知れないけれど、間近に触れてみたことはない。しかし今こうして指先をのばすまでもなく、その冷ややかさに促された生暖かさを感じとっている妙な気分にまわりは、淡い恋情が肌よせあっているふうな懐かしさで満たされていた。
「どうも最近、耳の奥がかゆくてね」
色変わりを見定めるより早く幸吉は、眼窩を制するまだ残された少女のおもかげに甘酸っぱさを覚えかけると、訝しい虚勢がちらり顔をのぞかせては、そのくせ足場のおぼつかない土台はいつまでたってもこのまま放置されてしまうようで愁いに苛まれるしかなかった。
「よく見てあげましょう」
吐く息が耳朶をくすぐりそうな甘い恥じらいに幸吉の頬や首筋はほんのり染まりかけた。しかし、湯女の姿態を取り囲むがらんとした無味な部屋の様子にふと我へかえった途端、ちりひとつ舞ってないかのごとく空疎で間延びした情況が押し寄せてきた。
白襦袢の居住まいに湯気はまったくおりてない。
湯女と呼ぶにはふさわしくない相手は、
「わたしにはよくわかりませんわ。ほらいい具合の陽射しなのに奥のほうまで届かないようですね。それならちょうどよいからかみそりで髪の毛を切ってあげましょうか」
確かに陽当たりはどうした加減か、泣きたくなるくらいにほどよく、だが唐突に言い出した言葉にことさら驚くこともないまま、それは少女の顔の反面へ浮きあがっている鋭利な欲情を見通してしまった過誤によるものだろう、過誤でなければ事態でかまわない、そちらのほうが好都合であると、幸吉は薄ら寂しい夜風を耳もとに後追いしながら眠りおちた幼年のころを思い出し、暗鬼へと連なる怖れと期待に胸を震わせた。
寝入り際の微細なものおとが醸しだす景色は、夜の闇の支配に縛られるとは限らず、恐々した様相に傾いていくばかりでなく、反対に青空をゆったり流れる雲の静けさであったり、昼下がりの縁側をわがもの顔で闊歩してゆく鈍い毛並みをした野良猫だったり、向こうの草むらにひそんだ蜥蜴の尾の俊敏なひかりの動きなどを映しだしていた。
もし夢見のとば口に番人がたたずんでいるなら、現在でも幸吉を歪んだ絶景に導いてくれるのだろうか。
「さあ、おとなしくしていて。このかみそりはとても切れるから」
なるほど湯女の演じる手もとに狂いはなさそうだ。
そして片ひざを起こしたとき、さきほどまで疎遠であった肉体の照りがあたかも陽光に呼び求められたのか、襦袢の白みを抜けたふとももの染まり模様、それはこぼれ湯を浴びたごとく華やいでいるのだった。