美の特攻隊

てのひら小説

巣窟

「まったくなんで火を灯したりするんだろう、こっちは熱くて仕方がない。このまえも何かの弾みで落ちてきたろうそくの固まりで仲間がやられた」

芸太の任務は斥候です。たいがいは彼一匹で遂行されるのでした。人間たちの習性について蟻の芸太が知りうるのはほんのわずか、夜行性ではないけど日中でも燭台に火が灯っている、しかし、この屋敷は特別なので他所とは違う、それが以前聞き伝えにしたすべてでした。確かにここでは人間の寝静まった気配を感じたことがありません。もっとも芸太には帰るべき巣があり、そこで暮らす女王や清掃係、運搬係、育児係といった仲間と夜には眠りにつきますから関係ないのでしたが、彼らとは別の夜行種もいて唯一の情報はその方面から伝わったと思われます。

芸太は夢を見ることがありませんでした。いや見ても憶えてないのかも知れません。気がついたときには彼の役割はすでに定まっており、こうして斥候に出る日々を誇りにさえ思っていますので、あれこれ無駄な考えをめぐらして大事な仕事がおろそかになってしまうのは罪なことでした。芸太は重大な責任を背負っているのです。巣にとって何よりも肝心な食料を探し出すわけですから、いつも緊張と冒険の連続です。危険の割合をいえば運搬係が行列をなす場面よりかは低いでしょうが、さながら荒野に一匹でさまよい出る緊迫感は窮屈な自由を吹き飛ばす不安との闘いでもありました。

一度人間にまじまじとその姿を見とがめられたことがあります。爪先よりも目の玉のほうが芸太に大接近したのです。「見つかったこれまでか」全身がすっと軽くなったのはそうした断念によるものではなく、人間の吐く息によってその身が空に飛んだからでした。ほんとにあっという間の仕業で、これまで一度も垂直なところから落ちたりせず、どんなくぼみのある家具にだって器用に這い上がり、込み入った事情よりも更にざらついたところだって渡ってきた芸太でしたけれど、こうも突発的で悪意ある強風にはかないませんでした。そしてこんな仕打ちをしているのが子供であるのが直後に理解できたのです。蟻にだって子はいますからその姿の大きさで分かりました。

芸太は無信心なので誰かに向かってとっさに祈ったり出来ませんでしたが、自分でも訳の分からない言葉とも思いとも違う何かが、ちょうど腰のくびれから発生して半分にからだがちぎれてしまうほど熱い声となってほとばしりました。運がよかったのか箪笥の陰へと隠れるに最適な箇所まで移動されていたのです。子供は一息だけで気が済んだらしく芸太をそれ以上追いかけたりしませんでした。そんな危機に直面したせいでしょう、今までより部屋の様子をよく観察してから食料を求めるようになったのです。

すると普段は敬遠していた燭台の近くにはいつも分別顔をした人間がいて、四本足で畳を這っている子供を寄せつけないよう注意しているのが見てとれました。芸太が獲得するべきものは人間らの居場所に特定されません。巨大な足の裏によって座敷のいたるところに運ばれているのが実状なのです。しかしそんな足の裏が闊歩する畳のうえは蟻の世界からすると依然広大な領域に違いありませんから、まずは安全地帯となるろうそくの灯る下方へ身を寄せます。大人たちは常に何かを見つめていて身近なところを注視したりするのは滅多にありませんでした。

芸太は斥候としての攻略を発見した歓びから、同じ任務をまっとうする者らにこの事実を教えたのです。結果早くも一匹が熱したろうのしずくの犠牲になってしまいました。かといって威風堂々と適地に赴けば、突風はおろか天からの魔手がのびてきて万事休すです。行列隊の明暗を決定するのもこの悪魔の手にかかっているわけなのですが、芸太はそれでも運搬係の隊長になるだけ火影を進むよう提言したのでした。

ある夕暮れのこと、いつになく屋敷内がざわついているので気を引きしめて様子をうかがっていると、それまで聞いたこともない呪文が唱えだされました。言葉の意味はわかりませんけど、あきらかに普段の言葉使いとは異なる、蟻の自分でもとても妙な気分になってしまいそうな響きが聴き取れたのです。

「きたぞきたぞ、こうをこうをたけ、きりをきりをはれ、のうみそまぜろまぜろ、ろうかをまわせまわせ、ろうかをおりまげろまげろ、なむなむなむなむなむ、とけいをとめろとめろ、、、、、、」

どうやら芸太らが奥の間と呼んでいる部屋からその声が漂って来ます。虫の死骸をたまに見つける以外ほとんど収穫のないため足をのばさない廊下に思わず出てしまいました。その方が呪文がよく伝わってくる、そうです、まさに蟻にとっても明瞭な響きであり、芸太はまるで引きずり込まれるかのように日頃の慎重さを失いかけておりました。

畳とは多いに感触の違う板張りの滑らかさに戸惑うこともなく、茫然と声のする方向へ這ってゆきます。暗色をたたえながら月日を運んできた廊下に怪しい光がときおり明滅しかけたときには、すでに妙なる音はやんでおり、かわりに人間の足踏みがすぐそこまで迫って来ました。足つきに乱れはありません。ふと我に帰った芸太は、上方に香っている濃厚な匂いの残滓をまるで調教された犬のごとく嗅覚で切り捨て、音像を結ばすよう、見たこともない夢を想い描くよう焦点を定め、深い森にも生息する種族のちからを借りながら祈りを捧げ、次第に歩み寄って来る人物を嗅ぎとったのです。

ちいさな芸太にしてとって人間の速度は計算外でした。そして白い足袋が夢の証しだということもうなずけました。が、極度の緊張は足の影を作りだしています。「踏みつぶされる」本能的な恐怖は避けがたいのです。

蟻の芸太が目覚めたのは百年以上さきだったかも知れません。それくらい夢を長く感じていたのでした。ほんの一瞬の出来事なのに。

芸太は土壁に寄り掛かりかつて這い上がった記憶もない天井を見上げました。視界には夢の白足袋よりもっと純白な封筒が大きく広がっていました。