美の特攻隊

てのひら小説

こおろぎ

長生きしようが、早死にしようが、こおろぎの音くらいこの国に生まれた者でしたら耳にしたことはありませんか。わたしは小さい時分、背丈ほど盛り土された芝生に駆け上がり、指先からはみ出すほどのびた青草をむしる要領で掌を握りますと、面白いくらいこおろぎがつかめましたので、一時期は虫かごが満杯になるまで夢中になってその場所に通っていたのです。蝉取りでもそうですけど、あまり大量に捕獲できてしまうと興が冷めるといいますか、早い話あきてしまうのでした。が、芝生とはいえ、草むらに潜む姿がいとも容易く手中におさめることの快感は禁じ難く、ついつい足を運んでしまって、しまいにはここいら中のこおろぎを全部獲ってやろうと考えてしまったのでした。例えはどうかと思いますが、軍事的には殲滅作戦というところでしょう、なにせ、テレビ番組のコンバットからの悪影響か、わたしにはこおろぎがドイツ軍の兵隊に思えてきまして、虫かごはさながら捕虜収容所、そこへおさまらない奴らは攻撃対象となるわけでして、といいましても、玩具のピストルで撃つなど高等な遊戯ではなく、つかみ獲ったまま少し離れたところにマンホールがありましてそのまわりはセメントで固められています、そこに勢いよく叩きつけ即死させる、そんな残酷な行為をくり返していたのでした。

今から振り返りかえれば、なんとまあ、かわいそうなことを、いえ、悪逆極まりないことを仕出かしていたのだと、ひたすら悔やむばかりです。こうして子供の純真無垢はわたしの中では甚だ疑問符と成り果てたまま、宙を泳いでいます。

懺悔のつもりではありませんが、子供ながらにおののき、くちびるから血の気が引いていくように感じましたのは、殲滅作戦が完了した、まさにあの瞬間でした。マンホールを取り囲むほどの死骸が散らばった数十匹どころではない、無惨な光景を直視し、ようやく憑き物が落ちたふうに勢いが消え失せ、うろたえて、何度も芝生をかき分けてみたものの、あれほど簡単に出会えた虫たちはいっこうに姿を現さず、二度とわたしの手の中に包まれることはなかったのです。いくらなんでも自分ひとりですべてのこおろぎを殺してしまったなんて考えは間違っている、ドイツ軍は猛攻撃にひるんで撤退したから辺りは沈黙を守っている、他者は知らず、わたしにはそんな弁解さえ思いついた童心が薄ら寒くて仕方がありませんでした。そして卑屈な涙を流してみたことも。一体誰に許しを乞うたのでしょう。以来、害虫と人間はさておき、無闇な殺生や加虐は相当ひかえるようになりました。

時折、似たような経験を聞かされることがあります。トンボの羽をむしったとか、カエルの口に爆竹を加えさせて放り投げたとか、よくもまあ類型的な悪戯が流布していたものだと眉をひそめてしまいます。わたしも同様なのでしょうが、そうした時分を思い返す人たちの顔つきは決して愉快な表情など浮かべてはおりません。悲痛な面持ちこそあらわにしていませんが、どことなく申し訳なさそうな、それは照れ隠しとも異なる、もっと内面からじんわり湧いてくる冷や汗のような、暑さに閉口している自然な苦笑いなのです。

人間が犯す残虐行為にはどうやら際限がなさそうです。生命体の保持が弱肉強食であり、血の噴出が転じて聖性を帯びる儀式の形態は世界中にあまねく見聞できるはず、ニワトリの首を斬り、その鮮血を浴びる祭礼に携わる民族に対して今日のにわかつくりで備わった動物愛護の精神など通用しませんし、それぞれの文化において、様々な生き物が崇められたり、反対に忌諱されているのは周知の事実です。それを野蛮と呼ぶのか、どうかは文化と時代が織りなすあやであって、一個人の視線から通底されるほど安易ではないでしょう。

けれども今、急速に人間を取り巻く環境が激変しようとしています。個人の世界でもなければ、世界の個人でもない、わたしたちは奇妙な世界との関わりを深めようとしています。わたしは平和主義を声高く叫ぶものでも、民主主義を徹底して尊ぶものでもありませんが、そうかといって歴史の終焉に賛同するほど悲観論者ではなく、また無常観を盾にする気分もさほど持ち合わせておりません。わたしは世界を知らないのですから。わたしが知っているのは、指先のささくれみたいな取るに足らない世界なのです。常にそこが入り口であり出口なのです。しかし、通路はけっこう入り組んでおりますから、あんまりぼんやりしていては迷宮を本宅にしなければなりません。これは随分と大風呂敷をひろげてしまいました。

こおろぎの話しに戻ります。桜の見頃にもなりますと、夜間には草木のあいだからその鳴き声が届けられ、秋の虫といったイメージが、こう何か悪くはない意味で前倒しになって季節の循環が狂ってしまったふうな、いい加減でまさに虫のよい、心地よさを覚えてしまいます。あれだけ残虐だった子供が言うには口幅ったいのですけど、これくらいしんみりとした音調を地面に伝えてくれる虫はおりません。他にも鈴虫や松虫なども品のよい風趣を醸してくれますが、彼らの努めは笛や弦楽器のように華やいでおり、いわば秋の真打ちとも呼ぶべき威風に彩られ、こちらの耳もしっかりと暗がりなりに傾けないといけません。

それに比べれますとこおろぎの単調で、夜気を吸い取っているような細切れな、幽かでありながらも案外、明瞭で主張さえしていそうな風情は、聞き入ることも、また無視することも可能な音楽ではありませんか。

以前、欧米では虫の音などノイズでしかないと言われている、確かそんな文章を読んだ記憶も古びることなく、おそらくそう年月も経る間もない、ビートルズのアルバムの曲のつなぎにこおろぎの音を聞いた驚きと、デビット・ボウイが雑誌のインタビューで「最近はこおろぎなどの鳴き声に耳を澄ましている」といった発言を知った歓びは思春期のわたしに決定的な刻印を残してくれました。あれから幾年か流れましたけど、静かな感動はいつの時代でも変わりなく胸にしみ入ります。

毎年のことですから、特別な想い出はないのですが、あえて上げますと、東京の六本木、大通りに面したビルの影、ひっそりとした外灯に照らされたこじんまりした人気のない公園、裏通りに何気なく足が向いたわたしを待ち受けていた大合唱、あまりの音量に大都会の機能を示されたようでもあり、もしくはそこが異界にも感じられたようでもあり、しばらく立ちすくんでおりました。二十年以上まえの夜景です。

今、指先のささくれをあらためてじっと見つめています、やはり供養かも知れません、こんな文章を書いているなんて。

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