美の特攻隊

てのひら小説

月影の武者

月明かりの白砂、穏やかでひとけもない、孤高の波打ち際。喧噪が過ぎた気配は幽かに名残惜しく、ただ独りの鎧武者の陰を映し出している。たった一度だけの、したたり落ちる冷や汗は月光を受けて青ざめており、たぶんそれは私自身の心境であったと思われるので、増々胸がときめいてしまうのだったが、あんなに浮き世離れした場面に出会った試しがなかったから、こうしていつまでも単調で怠惰な日々のあたまに鉢巻き締めされているのだろう。

黒々とした甲冑には潮のしぶきが点綴しているのだが、私には月のひかりが意思を抱いて降り注いでいるとしか感じられなかった。結晶より無粋でありながら、水滴より尊い夜のしじまの輝き。辺りの山々の背景はずっと遠く、武者の頬当てだけが画面を支配している。ひげ飾りはなく、大魔神を彷彿させる異形であるのだけれど、しかし、不思議とのっぺりとした落ち着きがうかがわれ、不敵な笑みとも悲嘆の面とも、恍惚を得ようとしている矢先とも見受けられる。そして睥睨に至ったとき、私の記憶は途切れてしまった。

 

花凪源十朗はとても困惑していた。剛毅にして果敢な出立ち通り、武勇の誉れは高く此度の奇襲も満場一致で首肯され、主君より命を授かった。夜陰に乗じて敵将を討ち取ろうという策謀であったのだが、予期されたよう敵将の陣は容易く見定められなかった。松明のまばゆさだけでない、どれもこれもが標的に映しだされるふうに仕組まれていたのである。

源十朗らは隠密行動のゆえ、十数名を二手に分け、探りを入れたのだったが、それでは特攻の焦点が望めなく、が、このまま抜刀せず引き返すことなど出来ない。すでに向かい側には源十朗に加担すべく捨て身の撹乱兵たちが突撃の合図を待ちわびているのだ。昨夜の斥候からの報せでは斯様な情況ではなく、だからこそ勝機ありと見込んだのであったけれど、こうして裏をかかれた現状に狼狽するしかない己を否定するためにも、漏洩はどこで為されのかだの、内部に諜報が紛れていたのかだの、果ては日頃より反目とまではいかないが、快く思っていない側近にまんまとはめられたのかなどという思念を猛烈に働かせていた。

しかし考えあぐねれるほどに、ときはじり貧への傾きを許さず、衝動的な無我はその掌に汗となって斬り込みを促していた。

源十朗は配下のものに低い声でこぼれ落ちるよう意を伝えた。

「もっとも燃え盛っている松明こそ本命と見た。却ってひっそりと夜気に包まれておろう姿は至当すぎようぞ。敵軍とて警護の厳重な陣なればとせせら笑っておるのじゃ」

独断とすれば妥当であったが、奇襲の道理はすでに霧散し、討ち死にを選びとるより仕方のない場面をひきつけたともいえる。鬨をつくるまでもなく、源十朗は夏の虫のごとく赤々とした松明に吸い寄せられ、目に入るすべての動きに対し剣を浴びせかけた、いや叩きつけたのだった。

忘我の境地であった。撹乱兵の勢いも相まって敵がたの周章ぶりは突風にあおられたすすきの穂を想起させ、次々と刃のしたへ戦意喪失者を横たわらせた。

実のところ、源十朗は悲願の首級を手にした攻防も経緯も失念していた。正気にかえったときには血まみれの布切れを抱え、独り戦場から遠のいていたのである。そこが山間から相当隔たった地なのは、血の香りに寄り添ってくる潮の匂いを覚えたからで、どうやら一山越えたと、そして武士の面目を守りきれたのだと、安堵した。広々とした白砂を踏みしめるやわらかな感触が、寄せては返す波の音と折り重なり、ひとときの平穏を得たのだったが、たった独り身で浜辺をさまよっている影を足もとにしかと見いだした際、不吉な念が月光とともに源十朗を冷ややかに照りつけた。

「影とな、、、」

一か八かの突撃はもはや戦略でもなかったし、知謀でもない。敵将の御身が話頭にのぼるとき、その明晰な頭脳もさることながら、恐ろしく警戒心の強い研ぎすまされた植物的な神経も取り沙汰された。左頬に小豆大ほどのほくろを授かったことを幸いに、幾人かも知れぬ影武者を周囲はむろん、鷹狩りの折や宴の幕内などにも周到にすげ替えては用心を怠らない。似た風貌とつけぼくろさえあれば、敵将は人前に姿を見せることなく、奥深い寝屋で好色に耽ったり、高いびきで天下泰平の夢に遊べるであろう。

源十朗は月明かりから逃れる足取りで己の身と首級の隠れ場所を物色した。甲斐あって小さな洞穴を波うち際に見出し、辺りを慎重にうかがいそっと影を忍ばせた。

とりあえず人目から消えることが出来たと胸をもう一度なでおろせるはずであったが、暗黒の洞穴は視界を奪い去り、念頭にたちこめている真意をただすのが不可能になってしまった。せめてものと、布をほどき首をなで頬に指さきが触れ、直ぐさまそれがほくろであるのを感じとったまではよかったのだが。

源十朗の長く熱い夜はここから始まった。灯火を求めずとも敵将である証左を得て、小躍りしたい気分は思いの他、蔦がからまった森に封じこめられたような不安に鎮められ、やがて疑心の暗雲にすっかり閉ざされてしまったのである。

もう体温を失っている生首のほくろに微熱すら感じないにもかかわらず、源十朗は卑猥な手つきでその証に触れ続けていた。めぐるものは生暖かい反復だけであった。

「偽物であったにしろ、すぐに剥げ落ちるはずもなかろう」

「人肉に付随していたとして、実によく出来た技巧である」

「見分けがつかないゆえの影ではないか」

「この感触は本物に相違ない」

当惑は真贋に帰結されるべきであったのだが、いつしか想いは、いかなる理由で隠遁の態を選択したのかという、現実に舞い戻っていた。

「でかしたぞ、源十朗、ほほう、さすがは花凪どの、あっぱれでござる」

「奇襲を悟らぬ敵将ではあるまい」

主君はじめ居並ぶ要職はもちろん、親族縁者の賛嘆を耳にした途端、あとは嘲笑の的であり続ける光景から逃れそうもない。影に擁護されている内実をつかんでいながら、夜襲の案に賛同した面々の心根が小憎らしいくらいよく分かる。おめおめと偽物を小脇に携えている格好を見とがめられたなら、どれほど恥じ入らなくてはならないのか。討ち死の覚悟が成果をあげたにせよ、失態は失態、むしろいとも簡単に首級を穫れたほうが怪しい。

源十朗の胸中は死線から脱し得た喜びを糊塗せんが為、自らの名誉に拘泥してしまい、どうあっても生き延びた我が身が情けなく思われるのだった。

一刻も早くこの首を始末しなければ、、、そして敗走の汚名をぬぐうには、、、いや、己だけの力で首を打ったのではあるまい。壮絶な斬り合いが一方的な戦果として、また散る火花を消滅させ、記憶を葬り去ったのは紛れもなくあの刹那、敵将だと信じて疑わなかった功名心であり、極点にまで舞い上がった勇猛という怯えであった。

言葉にすれば見苦しい葛藤に過ぎないけれど、この心持ちにいたる夜は決して短くはなかった。ふらふらと洞穴を抜け出たのは黎明を告げられる寸前であったように思われた。

まずは血まみれの布を波にさらわせ、同様に生首も海中に放り投げようと弱々しい力をふりしぼろうと努めた。そのときである。

「貴様には出来まいて」

信じがたいことだが、両の手にはさまれた首がそう口を開いた。腰を抜かさんばかりの場面であったけれど、源十朗は金縛りにあった様子と見え、微動だにしないからだに逆に操られるふうにして、首を砂のうえに置き、兜を脱ぎ捨て、魔術にかけられたふうなだらしない顔つきのまま、剣をゆっくり抜き、切っ先から棟に左手を滑らせて両肩に乗せ、そのまま一息に胴体より己の首を斬り落とした。

源十朗の哀れな表情が波間に消えゆくのを待っていたのか、砂上の首級は高貴な目配せを月影にしめし、虚脱したはずの胴体に生命を与えたのである。

両腕がのび、あろうことか生々しく血糊を垂れ流している斬り口へと、あたかも人形の首をすげ替えるごとくおさめてしまったのだ。

それからおもむろに兜と頬当てを被り、あきらかに人目を意識したまなざしでまわりを見据えた。夜明けにはまだまだ猶予があった。鎧武者はそれをよく心得ており、源十朗は知り得なかったのである。