美の特攻隊

てのひら小説

にゅうめん

静夫が十歳になったばかりの秋でした。

「明日から親戚の子をしばらく家であずかることになったから」と、いつもとは違った目つきで母親から聞かされたとき、みぞおちが急に熱くなってしまって、しかし学校でよく起こす苦痛はともなっていなかったので、胸もとをさかのぼりのどを抜け、あたまのなかにまで侵入してくる熱風に浮かされているしかありませんでした。

突然のしらせは秋風にはなりませんが、涼風が運んでくれる乾いた感触をどこか忘れなかったようで、当日になってみると胸の鼓動は早まり、まるで運動会の喧噪と緊張に似た場面に立たされていました。

静夫はひとりっ子でしたから、以前より兄弟姉妹へ対するあこがれは季節の移り変わりに等しく、細やかに、あるときは大らかに波うっていたのです。手放しの期待に転んでしまったとは思えなかったのは、よく見通せない路地を勢いよくかける童心がそれほど無邪気でなく、つまずく先にうずまく影の気配をそれとなく心得ていたせいかも知れません。

その子の名は絹子といいました。歳は静夫よりひとつ下です。向かって右の頬に、正確にはこめかみからあごの手前にかけて火傷のあとかと思われるかなり目立った染みがありました。おそらくその黄ばんだ色合いからしてかなりおさない頃に受けたものだと、静夫は見つめるている目の奥に不穏なかたまりが出来てくるのを知りながら、気持ちのなかでは泥まみれになった捨て猫でもいたわるような感傷を同居させていたのです。

ちょうどバナナの曲線がところどころ途切れたふうに、まだらとなった文様はほんらい色白の少女にどれだけ深い哀しみをあたえていたことでしょう。静夫に理解された最初の印象はごくありがちなそんなまなざしでした。

両親と祖母の暮らしのなかにあたらな家族が生まれました。静夫の胸中はおもちゃ箱をひっくり返したより、いたずらでたんすの中身をかきまわしてしまったより、もっと小面倒な事態をむかえ、どういうふうに絹子に接したらいいのか悩みました。もっとも、鬼ごっこで鬼になったときの心持ちを引きのばした程度の悩みでしたが。

絹子の出自に関する話題はいっさい静夫の耳に入ることはありません。そして静夫自身も少女の過去を問う衝動を思ったより軽やかにかわしてしたのです。

学校にはふたりそろって家を出ましたが、近所の同級生も一緒だったことから、暗黙の了解により絹子は人見知りをするよその子らしさと、無闇にうちとけない少女のさがをうまく演じ、いつも静夫たちより一歩も二歩もうしろに下がり、ほとんど口をきくこともありませんでした。普段からやんちゃな同級生のひとりも絹子の横顔に備わっている染みを見ぬふりするよう、余計な口だしをひかえていました。

学年が違うとあんがい校内で顔を合わせる機会も少なく、ときおり朝礼や運動場で見かけるくらいです。また帰りも一緒になることはほとんどありません。特に待ち合わせているわけでないので当たりまえなのですが、ある日、静夫はひとり帰宅していて背後から自分の名を呼ぶ声を聞き、振り返ると今は同じクラスでないけれど、幼稚園のころいつも並んで同じ路を歩いていた多津子だと知り、急に気恥ずかしくなってしまいました。

「静夫くんとこにいる女の子ってどこから来たの」

多津子は明日の宿題でも尋ねる口ぶりでそう話しかけてきました。開口一番この調子ですから、どうしてそれを知っているのか聞きただす間もなく、なおさら恥ずかしさはわけもわからず深まってしまい、けれども小学生になってから多津子に疎遠だったという思いが、さながら罰の悪さを盾にしながら懸命になにかをとりつくろっているような気がして、ぶしつけな質問さえ木漏れ日をひさしぶりに受けたようなさわやかさに変えてゆくのでした。それは多津子の無頓着な表情には現われていない、ほのかな親しみを感じとってしまったからなのです。

静夫にしてみれば興味本位であれ、絹子の素性や火傷の事情などに関心がないはずはありません。同じ屋根の下で生活するもの同士、ましてや不意な家族に寄せる気持ちは込み入っており、精一杯の背伸びをさせているのでした。

多津子の問いかけは、静夫を代弁してくれているようであり、そして絹子に対する奇妙な未知数を共有してくれ、身の軽さを不透明な重みのうちに投げだしている曖昧さが許されたのだと思えて、自分の態度を素直に認められたのでした。うれしさはときに相手にも差し出されます。親和が訪れたのは多津子との距離がほどよかったのでしょう。

質問にはもちろん応えようがありません。まったく絹子を関知してないのですから。静夫はできるだけ丁寧にそのあたりの事情を多津子に伝えました。しかし想像を交えるのは罪である気がし、自分が抱いている疑問だけを逆に多津子へ投げかけるふうなもの言いで話しました。不遇な絹子に向けられた同情や憐れみはすでに刺激をもたらすほど日々に追随していなかったのです。静夫が怖れたのは軽やかな感情とは決してつり合いがとれないだろう、眠れる幽鬼なのでした。

木漏れ日は多津子の白い歯並びに映え、きらきらとしたその残像はまだ観たことない映画のはずなのに、すでに覚えがありそうなゆがんだ想念を育んだのでした。

 

寝室といっても二階の八畳間に布団が敷かれるだけでしたから、それまで、父、母、静夫と川の字になって寝ていたのが、静夫、父、母、絹子と並びがあらたまり、窓際に位置したせいか、静夫は風の強い夜など何度も目をあけてしまいました。多津子に話しかけられた晩、昼間の延長にたなびく加減で夢はあたまのなかへ忍びこんできました。

富山のくすり売りは年に一二回忘れたときにやって来ます。

実際つい先日もそのすがたを目にし、あの旅人でもあり行商でもある普段あまり見かけない慇懃で、どこかしら凄みのある物腰とともに配られる景品の風船を絹子に全部あげたのでした。色とりどりでけっこう数もあったので絹子は喜びました。そのあと静夫は別に脅すつもりはなかったけど、見るからに毒々しく痛々しい袋の絵柄を、特に内臓が大雑把に書かれた解剖図の胃腸薬をひょいと絹子のまえに出すと、今にも泣き出しそうな顔でにらまれてしまったのです。

夢のなかで絹子は風船を飛ばしていました。静夫にはガスも入ってないのにふんわり宙に漂っているのが不思議でなりません。下の部屋から今にも二階まで上がって来そうです。呆然としていると絹子は手にした風船のさきになにやら仕掛けをし、小さな炎を灯らせたそれを他に浮かんだものへと送り出しました。

静夫は「危ない、火事になるじゃないか」そう、思わず声を荒げましたが、いっこうに止める素振りはありません。かといって絹子を取り押さえる勇気もわいてこないのです。そこで思いついたのは父親のカメラで現場写真を写し撮ることでした。ひとことふたこと、喚起してから絹子の狂態を撮影し、それでも火をつけてまわるのでついに憤慨して「これを見てみろ」とカメラを両手に掲げたのでした。

すると絹子はいかにも余裕たっぷりの顔つきでこう言いました。

「レンズをのぞいてみれば」

静夫は条件反射的に言われた通りに目を凝らしてのぞきこんだのです。そこには絹子ではない、もっと年上の多津子よりももっと妙齢の、例えばテレビドラマに出て来る娘役くらいの女性のはだかが映っていました。慚愧にたえかねている静夫を尻目に、絹子は思いきり首をねじり高笑いしていました。

夢はそこで終わりです。激しい寝汗が肌寒さと拮抗しているのを自覚しながら、静夫は半身もたげ夜目にもそれとわかる無心の寝顔に冷たい視線を放ちました。ちょうど夢のなかの火事を消したい意識もあったでしょう。しかし静夫のこころは異なる思惑に揺さぶられていたのです。額からおちた汗が涙になってまぶたの上から流れていきました。それから「起きているんじゃないの」静夫は絹子にそうささやいてしまったのです。

 

あくる日、静夫は全身悪寒を覚えたあと高熱を出しました。流行り風邪みたいでした。絹子もその翌日に同じ症状で寝こんでしまったからです。発熱もピークを越えると元気を取り戻したような体感で、すっかり日常に帰った気分になります。恒例により静夫は母へ昼飯の注文をしました。

風邪をひいたときには、どうしたわけかご褒美ともつかないけど、出前のうどんを食べさせてもらえるのです。

すでに割り箸子にもかつお節の風味が移っているようなかやくうどんは大好物でした。子供にだって出汁のきき具合はわかります。それと小さな袋の一味唐辛子、普段は食べつけないのでその辛さは舌に不快寸前のきわめて良質の刺激をあたえてくれます。ここ最近は袋の中身を残さずうどんにかけれるようになりましたが。

ところがその日は祝日で近所のうどん屋は休業だったのです。そこで母の発案は夏の残りのそうめんがあるから、にゅうめんを作ってくれるという、それはそれなりに心弾みました。なかなかに口にしない意味では夏の置き忘れも新鮮なのでした。めぐる季節がまだまだ輝いていたからです。

絹子も静夫も熱が引いていたので、布団の上ではこぼすからといつもの食卓で家族そろってにゅうめんを食べました。

めんが細いぶん、からむ食感はかつお出汁の香りでみたされ、のどごしも滑らかなのですぐにからだが温まります。祖母のめがねが湯気でくもる様子を父がからかい、母も機嫌がよさそうでした。絹子もずずっと勢いのよい音を立てながらおいしそうに食べていて、静夫の気持ちはとても晴れやかでした。悪寒や頭痛はいやだったけど、病気特有のしんみりした健気な心持ちをそれなりにかみしめていました。これも情緒なのでしょうね。

出汁をしみじみ味わいながらほぼ飲み干してしまった父がこんなことを話しだしました。

「こないだ、料理屋に行ってな、しめにお茶漬けが出てきたんだが、あれはお茶じゃない、出汁に抹茶を少し加えてるんだ」

静夫にはうどんの代わりにごはんに出汁がかけられている気がして感心しませんでした。

「ほんとう、ぼくは永谷園のほうがおいしいと思うなあ」と、出汁の茶漬けを食べたことがないくせに意気込んでしまいました。

そのときです、それまで食事中ほとんど喋った試しのない絹子が「あたし、それ食べたことある。おいしかったよ」と、真剣なのか楽しいのか、見分けのつかない声で、ぽつりと言ったのです。

静夫が驚いた顔をしたせいでしょうか。絹子はすぐにこうつけ加えました。

「でも永谷園も好きよ。あられがのってるの楽しい」

そう言ったあとの目は静夫にもちゃんと理解できました。火傷のあとなんか必ず消えてしまう、だってもうそんなに薄くなっているじゃないか。絹子の笑みをしっかり受け止めたようです。