美の特攻隊

てのひら小説

初恋

冬の空をよそよそしく感じていたのは、日の光とそぐわない冷たい北風のせいだったようです。

情熱的な蒼穹に躍らされた夏の日々から随分へだてられた気がするのも、やはり肌寒さが身にしみてしまい、折角の晴天はどこか取り澄ました高さで見おろしていると覚えたからでしょう。とは言え、師走の意味合いなど分からないままに何となく一日一日が軽微なあわただしさで過ぎてゆくのを、不快とは思っていませんでした。むしろ汗ばむのを忘れた妙な平常心が留まって、寒風にさらされている午後を澄んだ気持ちで送ることが出来たのです。

冷淡な想念は僕自身の望むところだった、、、現在から振り返ってみましても、その小粒な虚ろを嫌悪するどころか名状しがたい幸福感がじんわりよみがえって来ます。冬へ向かう時間は勢い、正月という節目に柔らかな棘を突きつけていたのです。未来はきっと童心と戯れていたかったのでしょう。落ち葉さえ香っていた年の瀬の想い出です。

 

先頃このクラスに転校してきた女の子がいました。横顔に火傷の大きなあとが残っている為か、無言のうちに周囲との距離を生み出してしまい、新たな同級生になじめない様子が僕にもよく分かるのでした。

子供の領分はときに冷徹なまなざしを要求させます。男子からの挨拶はさておき、女の子同士に交じっても決してうちとけた笑顔が教室内にひろがることはなく、それとなく耳に入ってきた転校の事情、親戚筋にあたる家に預けられているという風聞も、その子の顔面に沈痛なしるしを刻んでいるようで、増々腫れものに触れるのを避けてしまう雰囲気に閉ざされているのでした。

ついつい児童特有の一過性にまかせ、華奢なつくりの面立ちに深い陰りを見定めてしまうところでしたが、変化に乏しい表情は案外悲愴な空気をまとわりつかせておらず、それは僕が尚更に興味を抱いていた証しなのですけれど、ひっそり花咲く色づきたおやかな姿勢さえ垣間見えて来るのでした。

透き通った肌を汚している火傷がどういう災禍を醸しているのか当時は見当もつきませんでしたけれど、転校生であり、しかも人とは違う風貌の持ち主に対し、自分でも捕えようのない感情が小雨みたいに降りはじめると、逃げ場を失ったまごつきによって、さながら軒下を借りうける按配で容認していたのです。

細やかなこころの動きは大人になった今だからこそなぞれますが、幼心に理性が完備されているわけなどなく、ただそれぞれのしつけに盲目的に従っていただけで、しかも罪の意識がほとんど人まかせだったことを鑑みれば、絹子という未知の存在はちょうど小高い丘に据えられた石像と化して、風雨に応える寡黙な視線を讃えておりました。

本降りになった頃すでに濡れねずみの身を楽しむ加減とどう折り合いをつけたのか、子供の領分のほうがある種勝っているとしたらその先は明快でしょう。

師走という言葉を聞きかじった記憶がこうして巡ってくるのも、おそらく僕の胸中に奮い立った要因の名残りがあるからです。前もって言っておきますけど、井坂絹子の顔かたちをはっきり想い浮かべることは残念ながら出来ません。先日あの時分のアルバムをめくってみましたが、やはり心模様のほうが正しいみたいで、もう火傷も完治したのだろうかとため息まじりに、大切な見目を消してしまった使命に絡み合うつぶやきがぽつねんとこぼれるのでした。そんな面差しと引きかえに少々気恥ずかしいのですが、はじめてのときめきをお話しします。

 

僕の住まいは絹子と同じ方角でしたので登校時によく見かけることがありました。いつも前になって歩いていた上級生が、あの子の親戚にあたる暮田静夫くんだったと思います。そうです、いつしか僕は絹子の家を知り、玄関の表札と郵便受けに書かれた名前をのぞきこんでいたのでした。

通学路を同じにするのは児童にとって傍目からうかがえるほど単純な心持ちではありません。それは僕のひとり相撲だと言われるかも知れませんが、特に意識しない同級生でも、反対に普段から口をきく機会のない子のほうが些細ですけど困惑してしまったりするのです。まして興味とも好感とも憧憬ともつかない、しかし胸の奥に薄荷を塗られたような爽快だけれど吹っ切れない気分は、冷ややかに自分の位置を確かめたりし、落ち着きをなおさら悪くしてしまいます。

それで早足で絹子らを抜いたり、わざと路地に入りこんで視界から逃れたりしました。教室では転校以来いくらかは女子の間で喋ったりするのを見ていましたが、僕はただの一度も声をかけた試しがありません。席も離れていることもあり、一緒の空気を吸いながら吐く息が異なっているような錯覚におちいったときには、いよいよ「どうしてかわからない、気になってしょうがない」と、不本意な確信に身震いしてみせ、なるだけ学校内では平静を装いながらも、こころの片隅では下校時にはいつか話しかけてみようとか、暮田くんらが広場で野球をしているのを見物する振りしながら近づいてみることも考えたりしていたのです。

そして寝床に入れば妄想の翼は大きく羽ばたいて、すでに暮田くんとは親しくなっており、必然的に絹子とも和やかに話しをしている場面へ着地し、更には寝返りのひとつふたつもうつ間に想像の極点へと転がりこんでいくのでした。

「おまえはさ、大人になったら絹子と結婚したらいいさ、それがいい」

暮田くんの目からは信頼のひかりが放たれ、隣には一層かがやく目をした絹子の微笑みが不変の空間を作りだしているのです。歯ぎしりをともなった一念が夜に溶けだしていくのは陶酔をもたらしましたが、しっかり目は冴えています。

決して調子のよい夢のなかに隔離されているのでありません。ですから、まだ自慰を覚えていなかった僕はさながら射精とともに果てるよう、絹子の笑みに吸い込まれていく寸前で我に返ってしまうのでした。あとは余韻にひたり羽ばたきを終え、くちばしで夢の殻をついばみながら眠りつきます。

そんな昼夜に対し、僕は恋をしていたのだと最近もっぱら思えて仕方ないのです。年が明けしばらくして絹子はいなくなりました。あまりに急だったので表だって波立つことはなく、悲しくも辛くもありませんでした。ところが童心とはいえあの際に働いた水面下の起伏には感心しています。

ある晴れた日、木枯らしに舞う落ち葉を追っている目をもうひとりの自分が眺めているのです。大方テレビドラマの場面なぞを被せてみただけに過ぎないのでしょうが。

僕はあのときの冷えていた冬空が好きです。大人になってみると囚われるだけで、一向に埒があきませんから。