美の特攻隊

てのひら小説

日向

何気なしに壁に片手をつきもたれかかってみた。

固さも手触りも特に意識されない。

いまどき珍しいというより、ここが相当古い家屋である思いは、舗装される以前によく目にした雨上がりの水たまりに向けたまなざしと重なりあっている。

ふざけながら足を入れると時には意外な深みの水たまりに出くわす。小さな時分の想い出ならば、その深みに鈍感なだけだったのだろう。

 

ある夜、もたれた壁が見えなくなっているような気がしてよく目を凝らすと、わすれな草色をした蚊帳がその部屋に吊られていた。

「どう、透ける色合いがきれいでしょう」女は自慢気にそう言った。

「懐かしいなあ、どこから持ってきたんだい」

「納戸に眠っていたのよ。ほこりもかぶっていたけど、水洗いして干しておいたらこんなに蘇ったのよ」

「日差しが強いから一気に乾いたんだろうね」

「編み目に水分が張りついていたわ。ゆらゆらとしてるの。はたきかけて止めたわ」

「どうしてさ」

「ほうっておいても、じき蒸発しそうで。でね、よく見ているとひかりを浴びて編み目から浮かびあがるみたいに消えてゆくの」

「じっと見ていたのかい」

「そうよ、乾ききるまでずっと」

女の表情には日中の照りがまだ残っているようで、なにやら少しばかりまぶしく感じた。

なぜあの時すぐさま蚊帳のなかに入ろうとしなかったのだろう。湿った夜風がこの部屋に忍びこんでいるというのに。

くすんだ天井から落ちている灯りの加減で、ところどころが淵に沈んだような濃い色合いを見せていた。

隣の家から漂ってきたのか、ここでは無用の蚊遣りが鼻をかすめていったとき、夏休みの水遊びがとても懐かしく思われ、不意に川に飛び込む要領をまね、薄く透けるむこうに身を投げ出してしまった。

「あらあら、、、」

女は嬌笑とも驚きともつかない、小さな落石みたいな声を出した。

天井の隅から下敷きが割れるような音がしたとき、からだがふんわりと一瞬空にとどまったようで心地よかったが、電車のつり革状の輪が手前に落ちてきたので落胆のほうが勝ってしまい、いたたまれない気分になった。

古ぼけた室内に端然として、そしてこころ細気に吊られていた四角形を乱してしまった。

 

何日かしてその部屋を訪ねてみたけれど、蚊帳も、吊りかけ用に据えられた天井下の取っ手も、女のすがたもなかった。

がらんとした空気が土色をした壁に寄り添っていた。そっと触れてみると、日中らしい火照りが感じられた。