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美の特攻隊

てのひら小説

ドッペルゲンガー

極寒地では室内より冷蔵庫のほうが温かいそうだ。窓を開けるのは自由だが冷気とは関係ない。

ここで私の語るべきこと、それはもうひとりの自己像をどう認めるかという、心構えの問題に他ならない。では早速窓と共にに奇妙な扉に手をかけてみよう。

 

ウィリアム・ウィルスンが果たして不幸であったのかどうかを問うまえに、まず彼の資質を振り返ってみたい。それほど込み入った思索ではなく、どちらかといえば紋切り型の評価で十分かと思われる。

なぜなら彼の俗物性には嫌悪がもよおされることはなく、それはつまり特異な現象に対する反応が極めて人間的だったからであり、浸透した不安をかなぐり捨てようと懸命になればなる程、また拒否感と並列される嫉妬心を素直に受け入れて結果、事態は奇禍を招いてしまったに過ぎないからである。

 

「人間の力ではどうにもできない境遇の奴隷であったということを、私は世の人々に信じてもらいたい」

 

彼はそう述懐し、あまつさえ一歩一歩と堕落してゆくものだ、との前置きも忘れておらず、想像力に富んだ気質の子孫だったことに弁明を見いだしている。ほの暗い谷は大いに結構であるけれど、反面憐れみを切望しているのは何とまあ殊勝なことだろう。その先も縷々と気弱な経緯を綴ってから、以外や悪童に成育したところで、いよいよ影に出会う。

まったくの臆病者だったと一概に呼べないあたりが、実は彼の凡庸さを露見させており、次第に高まる焦燥の加減も自然の成りゆきならば、怨嗟が衝動として解放されるのは少しも不思議でないだろう。

ポオの視点はウィルスンの良心とやらの解剖に努めながらも、その結びにおいて辛辣な叫びを決して怠ってはいない。

 

「己のなかにお前は生きていたのだ。そして、己の死で、お前がどんなにまったく自分を殺してしまったかということを、お前自身のものであるこの姿でよく見ろ」と。

 

はたして殺してしまう必要はあったのだろうか。

私は長い間この疑問を保ち続けてきた。確かに影は事ある度に主人公をいら立たせたし、忠告や妨げを使命と拝しているような存在だった。さて不幸の是非であるが、私にはウィルスンの小心が残念でならない、それだけだ。大胆不敵な意思と行為を求める野心は到底ロマンの域を出たりはしないけれど、なら私は代わりに自身の体験を述べてみる。一読願えれば幸いである。

 

幽霊を見たくらいで魂消てはいけません。なるほど自分の影、ウィルスンが煩悶したように不利な面ばかり働きかけてくるのなら閉口するでしょうが、それはこちらから歩み寄っていかず、常に受け身であろうとする惰弱によるものが大きいと思われるのです。誤解なきよう、何も私が敢然とした態度の持ち主であるなどと言うつもりは毛頭ありません、人一倍神経質なうえ、最近ではもっぱら寝たきり老人の仲間と化していますから。

冗漫を避けたいところ少しの傍道を許して下さい。霊感という言葉が流布しておりますけど、それは見る側の天性でもあるのでしょうが、出る側にも、そうです、幽霊の方にも実力といいますか、才覚みたいなのもがあり影響されると仮定しておきます。

あの世から人智を越えた力で現われ出るわけですから、余程の執着なり未練を残していたり、或は情念、なかでも怨念の凄まじさが怪奇譚の中核をなしているのは周知でしょう。そこで疑点が生じるのですが、この世のなかには数えきれないほど非業の死を遂げた人々がいるはずなのに、怨念が力学として作用するのであれば、死者全員はその姿を必ずや現出させると考えたほうが至当ではありませんか。

しかし、実際にはその様な事実はほとんどありません。これは私見に過ぎませんが、どうやら死者にも霊力が備わっていないと、いくら切実な思惑を抱いていても、強烈な情念に支配されていようとも、あの世からの橋渡しは不可能ではないかと思えてしまうのです。

ですから、稀に霊的な存在を目撃したのなら、礼儀正しく向き合うのが道理でしょう。恐がっている場合ではないのです。

 

幽霊はさておき、私のドッペルゲンガーをお話します。二十代半ばでしたか、高熱に冒されたので病院に赴いたところ風疹と診断され、悪寒と発熱に呻吟しておりました。病状は医師の言う通り三日ほど治まることなく、消耗からくる急激な疲弊を余儀なくされ病床に臥していたのです。幾度目かの発熱時、水銀体温計の目盛りがほぼ上限に達しているのを朦朧とした意識により確かめたとき、私は異次元に足を踏み入れたふうな感覚にとらわれ、かつて落ち入ったことのない神妙な気分にひたってしまいました。

驚愕や不安は穏やかな四囲とともに曖昧な意味に薄められ、要するに身体感覚を越えた想念が私を取り巻いている、端的に申しますと外部からの侵犯に対し一切の身構えなく横たわっていたのです。

不快な症状自体は軽減されてはいませんが、心身分離したような明徴な念が枕元に浮遊しており、さながら幼児が風船と戯れつつ幻惑されるのに等しく、一心不乱の境地はまどろみへ溶け込み、ささくれ立った神経も、細やかな内省も関与していませんでした。私はからっぽを目指していたのでしょうか。大層な考えをめぐらすまでもなく、睡魔に襲われただけであり、意識が遠のいてゆくのなら、自然の摂理に違いないでしょう。

ところが、あの入眠時幻覚と同じの視覚像が結ばれているのを見逃すわけにはまいりません。

明徴さはより際だち、蒙昧とした陰りは取り払われ、脳内の機能が再稼動し始めるのを知れば、まさしく唐突に本来なにもない空間に異変が生じていたのです。私の右横にもうひとりの私が添い寝といった按配で存在していました。

幻の自分を認識しているのは、あまりに鮮明な輪郭と体温さえ共有しているみたいな親和であり、先ほど話しましたように詮索はおろか、疑心の生まれる余地なども有しておりません。夢見と混同しても私事ですので一向にかまわないのですが、あまりに姿かたちが生々しく、まるで磨きあげられた鏡を横たえている光彩さえ放たれているのでした。

そして、私の分身は内語で囁きかけてくるので、臨場感は途切れると思いきや却って直接な、不可分な、柔らかな攻撃に身をまかせ、愛おしさが押し寄せているのをひたすら幸せだと感じていました。如何なる囁きがこだましていたのかは、賢明なる諸氏の幸福さで量られるべきだと思いますから、詳細は無用でしょう。

 

補足になりますが、学術方面では「対象物とそれを視覚像としてみている主体の視座の双方を、同時に視ているもうひとつの眼(中略)を内在化できたと仮定すれば、現前された像の性格にたどりつける」と、吉本隆明は論じており、「脳内現象説」を唱えた立花隆は死後世界の実在も検証しながら、解明され尽くしきれない脳のシステムに迫っています。

又、ジャック・ラカン鏡像段階における「一次的ナルシシズムの到来であり、しかもこれはまったく神話の意味でのナルシシズムである。というのは、鏡像段階は死、つまりこの時期に先行する期間における生の不全という限りでの死を指し示しているからだ」といった乳児期の未明への類推も魅惑であります。

ほとんど明晰夢的体外離脱に終始してしまい、芥川龍之介が著した「二つの手紙」のような覚醒時のありありとした体験を語ることが出来ませんでした。と言いますのも、私にはそうした覚えがないからで、幽霊と対話する機会を願うごとくに分身と出会いたい一心しか持ち得ておりません。

短い考察を終えるにあたって、ここ最近の法悦を披瀝しておきましょう。残念ながら夢幻でしかありませんが、よい刺激であったことは事実です。

 

十代の私には二卵性の双子がいた。妹である信憑は自ずと確立しており、それは世界中の人々から認知されるより深く透明な揺籃のなかに息づいていた。

しかし、耽美的な映像に欠かせない記憶の断絶からみれば、妹としての実感は遠方に退いて、その距離を埋め尽くしているのは紛れもない果実の盛りであった。

はね除けられた上布団に寝そべる僕とは逆さまの情態で、互いの顔の位置が並んでいる。

極めて浅い眠りであるのは妹の事情によるものでなく、私の薄ら笑いから判断される新品の紙やすりみたいな欲望に起因していた。

一糸もまとっていない女体の眠りをあと少し黙って感じとっているのは、優雅であると同時にまばゆい光線だったので、かろうじて桎梏に成りおおせた。

首をわずかもたげてみれば、ふくよかな身体のすべてを愛でることが出来たけれども、さほど肉欲に叱咤されてはいない、もしくは時間を占領している余裕が、妹の目覚めを延長させ、実際の交わりは遅疑され、無限の悦楽を夢見ていたかっただけかも知れない。

愛おしさは私のまなざしにのみ眠っていた。

横目で見遣る妹の上唇にはうっすらした産毛が微かに波打っているので、紙やすりをかけてあげようと思ったのだが、注意深く眺めるまでもなく、すぐに笑みであるのが分り断念した。

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