美の特攻隊

てのひら小説

老人とわたし

いつかの続きね、あら違うの、でもわたしがそう思うんだから別にいいんじゃない。

連続性は意識のほうにあるんでしょ。室温より冷蔵庫のなかが冷たくないってどこかで聞いたことあるわ、どれくらいの温度なのかなあ、缶コーヒー入れといたらホットにはならないよね、いくらなんでも。

けどあり得たりして、、、それでびっくりしたっていうより、感激は無意味に接近しすぎてさ、思わず手にした温もりも反対に実感から離れてしまって、自動的に、当たりまえに販売機から出て来たからすぐに口にしたみたいな勢いで飲みかけて、独り「あちちっ、唇が火傷するじゃないか」なんてぼやくのよ。

「今どきの若いものは、、、まったく」って全部ひとのせいにして、といっても文句もなければ怒りもない代わりに、仏壇のまえに向き合っているような静かで、なごやかな嘲笑を浮かべているの。

 

そうして、わたし寝たきり老人になっているのね、しかもおばあちゃんじゃなく、おじいちゃんで、あっ、これはわたしの些細な空想、つまりね、まわりはすでに結婚し子供生んでる同級生もちらほらいるから、まだまだ若いつもりでいても、さすがに年齢を感じたりするわね。そこで中途半端に焦ったりすねたりしてると、増々ろくなことが起こらないような気がする。だから一気に老人になってみたの、、、随分と時間は前方に延びているでしょうし、人生はまだまだ長いと思っているから、あらそうよ、わたしね、けっこう長生きすると信じているの、こう見えても。

それで年相応なんて決まり事から脱却するためにも、さしあたり寝たきり老人の仲間になったという次第。おばあちゃんではつまらないの分かるよね、どうせゆくゆくはそうなるんだもの、だったら、じい様になったほうが刺激があって面白くない、足腰は弱り気味で、大方入れ歯だらけだけど、割合おつむは惚けてないし、食い意地とかもろもろの欲もまだまだしっかり粉末のかつお節みたいに残っていて、なかなかいい味を忘れてないって身の上。

わたしたちみたいな女を、じっと見据えたりしてさ、小言のひとつでも聞かせる振りしながら、しみじみと若返りを願っているなんて素晴らしく陰湿だと思う。全然嫌らしくはないわよ、だって、わたしがじい様なんだから、傍から見ているひとからすればそれは確かに見苦しい部分もあるでしょうが、今度はわたしがわたしを玩弄するだけだわ、何度も言うけど。

わたしの意識は消えてはいないから、ようするに自己同一性は保たれているわけで、ただ志向というか、生活観念にいくらかの乱れが生じているだけでしょ、なおかつ思考の働きは、、、屈折しながらもある一面は能動的であって、寝たきりの状態が誰かに迷惑かけているってことでもないしね、そうかといって別に自慢するような話しでもないけど、暇だから「寝たきり老人日記」でも書くつもりでいるだけよ。

でも独白体ではなんか今ひとつ立体感に欠けるっていうか、特に迫力までは必要ないのでしょうが、何らかの層があったほうがやっぱり陰影があっていいかなあ。

よし一人称はやめにして、わたし、つまりじい様にね、名前をつけてあげようかな。いいの、いいの適当で、年齢自体が超越的なんだから家庭環境も生い立ちもこだわりなんかいらない。

満蔵ってどう、満ちた蔵、もうお腹一杯、十二分です、欲しがりません勝っても負けても、これでいいや、さてと、では風薫る春爛漫のある一日から始めましょう。

とはいっても文体まで変えてしまえば、わたし少し不安で、何故って、それは実際に老人のままで終わってしまいそうだからさあ、分かるでしょ、女は業が深いのよ、しかもずる賢い、逃げ道を無意識で探り当てられる、男のほうが繊細だとかいうみたいね、それは聞こえが良いだけであまり役に立たない方便、女はひたすら細かいのよ、どっちに転んでも、深みに墜ちてもしっかり計算しているわ、情念の燃え方まで。

 

満蔵老人の眼にはある光景が活動写真と呼ばれていた頃の趣きで焼きついていたの。

介護の女性ひとりにそそるものがあって、どうやら夢のなかの化身みたいな、浮き世離れした面影が思い出せそうで仕方ないんだけど、あと一歩のところではかなく描ききれなかったわけ。ようはその若い女性を手鏡で見るような感覚だった。このからくりじみた情欲の底までのぞきこむよりも、満蔵は生き生きとした柔肌に触れたい一心をひた隠しにしていたので、ある意味救われていたのかも知れなかったけど、横臥した胸のうちには次第と溜まりつもっていったのよ。そして下にも上にも半途なまま、行動はおろか冗談めいた口ぶりだってあらわにすることが出来なかった。

手短かで上等だわね、光景ってほどじゃないんだもの。東海林さだおの漫画にあったそうよ、よぼよぼのじいさんのくせして、どう勘違いしたのか優しさにほだされている己の恥を知ることなく、介護士さんの色香に挑戦したの。

そのじいさんいわく「どうだい、ちょっと小便くさいけどここへ」って上布団をめくり見るからに不潔な寝床をポンポン叩いてみせた。相手の反応は言うまでもないと思わね。

満蔵にとっては甚だ情けない所行で笑うに笑えなかったが、それは上半身の意識だと薄々気がついていたのね、だから叶わぬ下半身は沈黙を余儀なくされるしかなかった、たとえ漫画の世界でも。

それがいざこの身に置かれてみると、笑いも沈黙もどうやら存立させてはいけない、この辺りが男の繊細な身構えだった。しかし幾度か顔を合わせ、満蔵のほうでも礼節を崩したりしなかったので、彼からすれば程よい手応えを受けとっているような気がし「漫画をバカにしてはならん」などと思い込む瞬間もあり、介護士が帰ったあとでは急激に熱気を覚えたそうだけど、球根に花が咲くように、パッとあたまが華やいだお陰で不埒な思惑を抱き続けなくて済んだそうよ。

「枯れることなきかな」とか一句ひねり出したい心境に赴いた己を満蔵は落ち着いて振り返った。

本当は現在なんだが過去形として美化したかったから、額縁にはまった光景に加工しまったわけ。それきり不届きな思念はなくなったのだけど、しばらくするうちにあの「ちょっと小便くさい」という言葉の持つ何とも卑猥な残響が満蔵のなかに染み込んでいった。

「おれの小便など気にしてどうする」

老人なら、いや年齢に関係なくそんな疑問を持つほうがおかしいのは満蔵もよく心得ていた。が、こうも考えてみる。

「まだオムツの世話になるまでもない、しかしその日は近いのだろう、けれども違う、そうじゃない、そんな心配なんかじゃないのだ」

反発する根はまさに濁った池の水面に沈む、発酵した汚物であるのが理解できたみたい。同時に汚物の所有をめぐる観念が水没する以前、すでに浄化されていることもね。

満蔵老人は身のまわりもその布団も、漫画に出てきたような悲惨で不衛生な状態ではなく、快適だったはず。では一体どうしてあんな強迫観念じみた響きを招いてしまったのだろうか。

まっさらなシーツに陽の温もりを知り骨ばった背を埋める。足先に触れる木綿の織りさえ伝わってくる閉じた開放感、老人は豊かな時間そのものを呼吸しながら生命と出会い続け、窓の外には澄みきった青空、近所の薮からうぐいすのさえずりが届けられる。

この寝床から這い出す意味を求めるほうが不健康だと太陽は教え、季節は風のうちに宿した無数の目配せで了解させる。双の眼を閉じるまでもなく春日和は清潔だった。暗夜の静寂と対比させる力量も失われ、寝たきりの日々は不動の感覚を礼賛しているようで仕方がない。交わりを阻む告知もないままに、あの動物的な衣擦れを耳もとから遠ざける為に。

満蔵の希望はむしろ不浄だったなんて罰あたりなことを閃かすのはいけないのでしょうか。

そう不浄もまた男の気構えよ。女は似たような態度をしめすけれど、そのときはもう溶け合う覚悟が出来ている。

わたしの言っているのはこころのことじゃない。ごめんなさい、わたし役者になりきれないわ。でも満蔵老人の気持ちは分かったつもりよ。

じい様の役は短かったけど、いい思い出になると思うわ、きっと。