美の特攻隊

てのひら小説

なべ焼きうどん

今日の空模様、窓の外にはやわらかな針のような雨脚、それほど嫌いでもない、煙る町並み。

寂しげな電柱だってよく目を凝らせば、いつもと居場所はかわらない、当たり前か。

でもモノクロ写真としての風情を欲している電線には同情してしまう。どうしてそんなに退色した空に共鳴しているの、、、

恋に破れた、か、、、そんな言葉は遠い汽笛か幽かな耳鳴りでしかないのね。

破れたといえば、昨日の夜中に封を切ったお取り寄せの紙袋、そう、特選うどんの中身、我慢できずに広げてしまったんだ。

りんかは決して恋を知らないのではなかった。ただ想い出として眠る宝石箱のふたに手をかけるのが億劫で仕方なかったのである。なぜなら、きらびやかな触れ合いや、さざ波のようなときめきと一緒になって、不快な軋み、そう些細なすれ違いと気分の変調が宵闇を模してこぼれ出してくる不安が怖かったから。

そしてこぼれた涙が頬を伝う感触を忘れられそうにもなかったから。

涙は塩辛い、、、どうして、、、あっ、減塩しょうゆ買い忘れたじゃない。まあいいか、仕込みは万全だからね。ひとりではいしゃいでいるふうに見えるだろうが、その面差しには寝起きとは別種の陰がほんのり被っている。

が、休日の目覚めはいつものふて寝と違って、安らかな眠りがあたえられたので、まだ夢のなかの霧をさまよっているような約束された落ち着きをまとっていた。だから朝食と昼食の狭間にベッドをおもむろにぬけだせたし、食欲も幸福感をはらみ、寝起きの水はのどをうるおすというより、朗らかな気合いとなりキッチンへ赴く合図になった。

洗顔、歯磨きのまえにりんかは確認した。ガス台のうえに端正に居座った土鍋の様子を。

手間ひまとは方便でしかない、そんな高慢な意識を自嘲する。そりゃ本格的に出汁をとれば最高なんだろうけど、そう毎度ではね、ものごとにはバリエーションって必要なのよ。などと普段は絶対にひとに発することのない口調でつぶやく。

つまりかつお節の出汁パックにじっと目を凝らしていたわけで、水だしとはいえ一晩ひたした加減は、すでに風味豊かな出来上りの色合いに迫っており、うどんと具材たちを受け入れる構えは十分に感じられた。

更に菜箸で出汁パックを軽くそよがせ、あたかもほうじ茶がにじみだすような、あるいは幼い頃、学校での化学実験を想起させる見映えに納得し、ここで今日はじめての微笑を浮かべたのだった。

理由はもうひとつある。願い事でもする手つきで出汁パックの下にひそませた利尻昆布の大きさに見とれていたからで、小振りにカットした割には肉厚の様相さえ呈していて、手抜きとはいえ、かつお節と昆布の二刀流において調理される段取りに得心したのである。

 

りんかはどうしてなべ焼きにこだわるのだろう。煮立てば湯こぼれもするし、第一おやじ臭い、いや、じじ臭い。テーブルまで運ぶ際に火傷だってしたこともある。

ようはですね、洗い物が楽なんて横着はいいません、肝要なのは卵の具合に尽きるのです。

確かに土鍋は火熱をよし来たとばかりの威勢のよさで引き受ける。半熟卵を好むりんかにしてみれば、余熱に悶える様は官能をくすぐるに余りあって、なおかつ的確な調整が可能となるであった。

素早く洗顔をすませ、長い髪をきりりと結び、鏡のなかの自分を見つめる。眼光にぶれはない。が、今日の具材はまだ定まっておらず、素早くきびすを返すと冷蔵庫を物色し、油揚げにかまぼこを認識する。

よもや卵をきらしては、という杞憂も同時に払拭されると、あたかも引き出しからに鉛筆を取り出す要領で青ねぎを手にし、安堵の吐息なのか、すっと天井に目線を泳がせたりした。これは深呼吸かも知れない。

土鍋に点火する。火力は全開だ。

お取り寄せのうどんの袋をあらためてしみじみ眺め、添付の粉つゆの存在をあえて無視した意欲に幾らかの後悔を覚えたけれど、いや、これは正確には昨夜の段階で粉つゆを見逃してしまった落ち度にあったわけで、名代うどんにはあり得ないと勝手に思い込んでしまった早計に涙ぐむ。

だが、泣けてくるのは新鮮な青ねぎに包丁をいれているからだと言い聞かせ、かまぼこ4切れ、油揚げは人さし指ほどの大きさ6切れ、このさい卵を2個投入しようかと思案したみたけど、そんなことだから恋に破れるのよと、宙に漂っているふうな思惑をたぐり寄せては、まったくもってシンプルな一品に帰着したのだった。

湯だったところで出汁パックを取り出し、一応キュッとしぼり、昆布はそのままにしてうどんと油あげを、まるで水葬のごとく、しめやかに滑りこませる。

わたしの時間は寿命そのもの、、、常日頃より強迫観念めいた唱えがここでは停止され、逆に時間の波に飛び込んでゆく放埒な意志に襲われた。りんかの目は輝いていた。湯気に反応したのではない、ゆであがるうどんに慈愛を感じ取っていたのだ。ゆで時間5分、生麺にしては少し長くも思える。

あなたの胸に抱かれていたのもそれくらい、、、またしても邪念がよぎり、ときの過ぎ行きを早めようと躍起になっている胸中を苦々しく思ったりしたので、かまぼこを早々に土鍋に入れてしまった。

りんかは卵をずっと握りしめている。だが、決してつぶしたりはしないであろう。

恋のゆくえは知らずとも、卵を割り入れるためだけに手のひらは愛を求めている。

もう、そんなに見つめて、、、恥じらうすがたをあのひとは面白がっていた。頬を寄せあう、髪が乱れ、息が弾みだす。

時間がわたしを流してゆく、、、妄念にもまれつつ、しかし時期は熟した。薄ら笑いになる。だってあと一仕事あるんだもの。

りんかは卵よりさきに取ってつきの金網をほぐれためんの上に乗せ、花かつおをふりまいたのだ。あなたにさえ見せることのなかった華やかな笑顔にとってかわり。

薄い花弁が雨に侵食されるような趣きを感じながら、間をあけて金網を引き上げ、液体出汁をくわえる、これは醤油の代用なんです。けっこう出汁づくめでしょ、味見を試みる。ほんのわずかだけ濃いめに感じたが真打ちの卵によってすべてはまるく収まるのよ。そして緑の幻想、平和の証しだわ、青ネギが土鍋に舞い散れば、、、、わたしは、、、

ああ、余熱、余熱、からだの火照りともつかない迷妄が完成に向ってひた走ってゆくのだった。