美の特攻隊

てのひら小説

青いまぼろし

なだらかな山裾がぼんやり映りだされると夜の空気は流線になった。

眼を凝らすまでもなく、木立から離れてしまった寂しげな枯れ葉が幽かに揺れているのがわかる。その先に静かなみずうみを見いだす予感も訪れて、葉ずれとさざ波が月影へささやき始める。

しかし夜空を見上げることは抑制されて、耳もとにかすめる微細な言葉は澄み渡り、風景が暮れてゆくのをどこか拒んでいるのだと感じてしまった。

月明かりで描かれた一枚の絵のまえで立ち止まっている。秋の宵、路地まで浸透する夜気を見定めていた想い出がよぎれば、玄関先へ飛び出そうとした衝動も回帰し、背後に柱時計の鈍い音をともなって曲線で満たされた失意が呼び戻される。

薄笑いの向こうに時間を知った。緞帳に閉ざされた世界は夢を開示しているから。

星降る麓が想像されたのか、絵の中央には異星人らしき姿がおぼろに現われており、虫の音を忘れた季節は何を補ったつもりだろう、妖怪変化の類いを土壌から放ち、寒々とした気分を空中分解させている。

その分子があらためて結晶して異形を作りだした。

白夜は味わったことがないけれど、夜の青さには憶えがある。

 

学年ごと撮られた生徒らの写真にはときに欠落した顔があった。御堂島くんが転校してしまう直前の記憶もまた静夫から消え去っていた。が、転入の際に受けた印象を含め、いくつかの場面場面は遠い波しぶきにも似て鮮明な輪郭を失っておらず、小窓から差し込む光線の明るみを想起させ、変じてはしなやかな動作の残像と化していた。

絹子がいなくなった春の陽気に好意を寄せようと努め、何度も瞬きをしてみたりしたこと、日々の流れをせき止めている魔の手に身震いしつつも眠気のような温もりを感じたこと、切実な思いに苛まれることなくこうして四季がカレンダー通りに過ぎゆき、目立たぬ希望はまだ息吹だからと直感し、頼りなさを知るまえに甘い味覚と仲好しであったことが、静夫の気持ちを柔らかく包みこんで、その日のひとこまを光らせてくれた。

教室内に起こったざわめきの比重が女子ばかりに傾いてないのを認めるのに抵抗はなかった。誰もが御堂島くんの容姿をまえにして瞳を輝かせている。彼は長身であり優雅に整った顔を持っていた。

そして活発な性格で、運動神経もよく上級生みたいな雰囲気があり、実際大人びた冗談を言ったりするので、男子の数人が何日もしないうちに御堂島くんの髪型を真似、坊ちゃん刈りを七三に分けていた。物おじなどしない粋な転校生の影響はすぐさま他の生徒に働きかけ、静夫らの教室は新しい遊びを発見したときみたいな華やぎを漂わせていた。

不思議だったのはそんな憧れにもかかわらず彼の家を訪ねたものはひとりもいなかったことである。

静夫にはそのわけがなんとなく分かるような気がした。御堂島くんが格好良すぎてみんな自分からは近づけない、妙な恥じらいが邪魔をしているからだと。

性別に関係なく線引きされる領分の秘密を静夫はすでに学習していた。絹子の夢がまぼろしであればあるほどに現実の姿は借りものになって、必要以上の距離ができあがってしまいその間を縮めるために不本意な態度をしめしたり、思いがけない行動をとってしまうこともあったから、子供ごころに芽生える煩悶もやはり底なし沼に通じていて踏み出す一歩が慎重なのはもっともだと思っていた。

 

曇りのち晴れ、毎日の授業や掃除が単調ならば、不意に照りつけるまばゆい太陽は奇跡の要素を抱えているのだろうか、いや、少なくとも静夫と同級生ふたりが見た状景は、いにしえから変わらぬ光線の降りそそぐ下にあったはず、確かに些細なためらいが生じていたけれども、劇的な瞬間を形成するほど守護されてはいない。太陽は御堂島くんのうしろにもくっきりと影を焼きつけている。

「そう、ぼくらだけじゃない」

静夫のこころに反響した声は普段から当たりまえのように戯れている調子で放たれた。そして遊びの世界に飛び込んだ自覚が発生したときにはこっそりと魅惑の転校生のあとをつけていた。

板塀に張りつきながら忍び足で進んではほくそ笑み、電柱の影にその身を隠し、卑屈な感情などふるい落とされてしまい、その残滓は確かめるまでもなく逆立ちしていた好奇の粒子だと知れば、簡単に射幸心はあおられ日々の連鎖に絡みついてしまった。

「あれ、きみらどうしたんだい」

御堂島くんの驚きに嫌みがないのを受け止めると、静夫は腹の底にしまっておいた笑いを我慢できず、

「ぼくもこいつとこも家が同じところだからさ」

いかにも取ってつけたような言葉でにごし破顔した。

「あっそうなの、ぼくのところはこの先を曲がったらすぐ」

そう言ってから怪訝な表情に移ることなく、

「寄っていかない、きみたちが始めての訪問者だよ」

と、相変わらず大人びた口調で誘いを向けてくれたので、静夫らふたりは可笑しさが別種の気分に運ばれていくのを確認する顔つきで見合った。

 

喜びの頂点らしき山稜にいつも容易く登れるとは限らない。御堂島くんの正確な顔が思い出せない以上、冷ややかな定理のもと欲望の仮住まいを覗いてしまった虚脱を覚え、その先の光景にたどり着けず、裸体をまえにした馴れ合いと同じ時間に被さっているような気がする。

前戯から絶頂にいたる興奮と混同するつもりではないが、この絵のなかに彷徨っている異形が予期していた通り歩きだしたから、夜は塗りつぶされていないのだろう。

 

御堂島くんには中学生か高校生か忘れたけど姉がひとりいた。

その顔も浮かんでこないが、姉と弟に交じり庭でバトミントンをしていたら物の怪にでも取り憑かれたふうに虚空へ眼を泳がしたまま返答もしなくなったことがあった。彼女はいったい何を見ていたのか。