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美の特攻隊

てのひら小説

さわ蟹

生家の裏庭に面した流しの下はちょうど水たまりに似て、心細げに類家の畑の溝へと通じており、春さきともなれば白や黄色い蝶蝶がふわふわ舞うさまは身近でありながら、陽光の届けられるまばゆさに名も覚えぬ草花が匂いたつようで、見遣る景色はなにやら遠く、逃げ去る子犬の愛らしさを想いだしては、ほんの少し胸を焦がしたふうな感覚に閉ざされて、ぼんやりした時間のさなかに夢見を知るのだった。

 

蛇口から勢いよく落ちる水の冷ややかさと透明感に時折はっとさせられるのは、忘れてしまった去年の夏休みの出来事に重大な秘密をこじつけているかも知れなく、もしくはすぐ後ろに位置していた便所の臭みを洗い流したい思いなのだろうか。子供の領域だけに封じることは不遜でしかない。愁いを透き通らせる秋口の新鮮な空気は今でも健在だから。

桜の木に拾っておいた蝉の抜け殻をひっつけようとしたことも苦笑で終わらせたくはない。大切な手つきだと感じている。捕まえかけては気まぐれみたいに距離をとった蝶の羽が残像になりかけた頃、地虫などと勝手に呼んでいたこおろぎの類いが薄暮を讃えれば、空の深みを読みとってでもいるかの殊勝な顔つきを自身に求めようとした。

静かな気分は心地よい肌寒さのせいに違いないだろうが、季節のうつろいに即した仮面の着脱は遊戯を決して軽んじないよう、唾液の粘りがどことなく卑猥な感じをもたらすよう、あるいはつまらぬ小細工に熱中した意気込みの影であるべく、玩具は数歩さきで常に冷めていた。

凍えたのはからだばかりでない。寒風にさらされた水道管もまた噴出する気概をせき止められ、洗顔を遅らせた真冬の日々はすっかり水たまりの初々しさを失い、漬け物石とセメントで適当に作られた流しの下らしく、わずかな湿気は滑らかであるよりみすぼらしい堅牢さを誇示していた。

日差しの加減であったのか、時期はずれの徘徊もしくはとち狂った目覚めなのか、幻覚なら仕方ない、爪と足に火傷を負ったふうな赤茶けた、さわ蟹のすがたがちらり、凝視に結ばれる軌跡は案外のっそりとしていた。

 

あれは草花ではなく野菜だったと振り返ってみる。土と葉は混じっていた。小学校の毎日はおそらく単調さにおいてというよりも制度を学ぶことで連鎖が育まれたから、途方もなく長い期間に感じられて、遡行するほどに未来を案じる錯誤を得た。

寛永通宝だと記憶しているが、どうして裏の畑から掘り出されるのか不思議でならない。不思議といえば、古くても貨幣なのだからもう少し弾んだ気分になればよいのに、誰かに吹きこまれたにせよ、土団子をこねている程度のうかれ具合でしかなく、とり尽くした感がやって来たのが分かる時分にはその辺に打ち捨てて家の中にしまわれなかった。

蝶蝶は今年もひらひら飛び交い、網が宙をなでつけ、朗らかな陽気に誘われ自慰に耽った。

早熟であるのは知り得なかったけれど、後ろめたさは正午の太陽に見咎める権限を無条件で譲り渡してあったから、雨戸に触れたくて仕方がなかった。夏の到来に振りまわされた覚えはない、ただ山積みの宿題や無理して通った早朝体操が疎ましく、かぶと虫がすいかに食いついて離れないのが微笑ましかった。

安物の花火が吐き出す鉄錆の酸っぱくなったような鼻をつく刺激を密かに好んだ。これは思い違いだろうけど、大岡越前の主題曲がテレビから聞こえる時刻、外はまだ薄明るくときめいたことがある。

夜八時、実は宵闇がどっぷり家の中に押しよせ、祖母の白髪をそつなく愛で、祖父の肖像画に刻まれたしわに染み込んでゆくのに、テレビの画面には打ち勝てなかったとでもいうべきか、そんな記憶は妙に新鮮だ。

運動会と金木犀が不可分であるのは緊張と解放の甘みが鼻先でまごつくからだろうし、開け放たれていたガラス戸が神妙に光線を受け入れている様子と映ったのは、目先がうつむき加減に同調していたのだろう。殊更かじかんだふうに両手を石油ストーブのまえでもむのはやはり寒かっただけ、それでいい。

正月にはお年玉がもらえたので初売りの玩具を買いに走った。なにをどう考え違いしたのか、間がさしたのか、平家物語ゲームという双六的な代物を抱えて帰ってきた。当時はすぐさま嘆いたものだったけれど、いつしか脳裡に常駐しはじめたところ最近オークションで再会した。

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