美の特攻隊

てのひら小説

秋雨

指先から指先へ、綱渡りの危うさで近づいては遠ざかる。

まどろむ皮膜のむこうには秋雨が聞こえている。散漫な意識の陰りは湿気ることなく、蒙昧なままの情況を伝えようとしているのだろうか。雨音は何故かしら乾いた響きを持っていた。

 

いつの頃からか私は夢の記譜法とでもいうべき作業に向き合っていた。

子供の時分は当たりまえだが、夢の内奥までもぐりこむ決意はおろか、夜の帳を冷静に覗き見ることもかなわず、物怖じを遊戯的な感覚で囲いこんでは、ひたすら檻の向こうから眺め悦に入っているだけでしかなかったけれども。

夢見の恐怖はお化け屋敷の仕掛けと同等の価値でしかなかった。

 

回想という意識のめぐりを認めるには極めて単純な、花弁がつぼみから広がるようひとりの女性が突然の訪問した一夜から始まる。

翌朝にたなびく気分には金木犀の芳香を想わせる切ない甘さが漂っていた。普段から注視していたわけでもない、親しい会話が弾んだわけでもないのに、まったく不意打ちの現われ方としか言い様のない場面は、夜へ色彩をもたらす。

水彩絵の具ともクレヨンとも色えんぴつとも、あるいは折り紙とかビー玉とか、ドロップでもガムでもいい、とにかくはっきりとした明るく愛らしい色使いに、淡いあこがれは誕生した。

私はその女性がそれから気になって仕方なくなっていた。

やがて好意自体がどうしたものか苦痛に似たような感じを帯び出した頃には、いつも恥じらいが前面に踊っているみたいでやりきれなくなってしまったのだった。そうした夢見がくり返されるうちに唐突の登場者は、ほとんど陰の恋人に仕立て上げられる始末となり、いわば方程式の按配で精通を知らぬ私をいたぶるのだった。現在に到って尚この方式は健在である。

さて、まぎれもなく個人的で小さいまとまりを欲している追想は、常に甘い旋律に傾きがちで、しかも哀感と交錯する自由を得たいが為の分析に終始し、断片としての映像により散らばった病根を拾い集めることが、あるいは言葉をただす責務に苛まられていることが、背後霊からの指令であるかのごとく、あたかも玄関先の溝を掃き清める行為に導かれてしまっている。

不発弾に軽い失望を覚えながらその威力など想像せず、ただ夜気にきらめく一条の閃光を見つめているのは、陽光のまばゆさに慣れてしまったひとでなしの証しかも知れない。情愛のひかりが世界を被っているという意味あいは不問に付される。言語感覚に異変をきたさない限り記譜法は変わらないだろう。少年は老いやすい。

 

先日のこと、まだ喋るにも覚束ない赤子をあやす機会があって、とはいえその父親は知り合いでもなく、母親の顔も見たことがない、そうした場面に臨んでいるのもやや不快な心持ちながら、前がはだけてままのビニールみたいな質感をした股間を訝しがっていると、おもちゃの糊付けかと思わせる割れ目を赤子の指先は痒いところでも撫でる感じで触り始め、そこから沁みてきた粘液になったものを口先に運んでいるので呆れ返り見ていれば、児戯と呼ぶまでもない野性の戯れは自然現象やら生理現象を擁護する調子で、まるで順番であるべきなのか私の口へ粘液と唾液の溶けたゼリーを塗りつけてくるから、満面に嫌悪感をあらわにしたのだったが、父親はいたって機嫌がよく、無垢な乳児の体液はすすって当然といった表情でいるので、叱るわけにもどうにも拒否しきれずにいると、

「さあ抱っこしてもらいなさい」

そう言って赤子を私に寄越したので仕方なしに「たかいたかいバアー」なんて卑屈な声をこめながら抱き上げ、更にはその子と目が合った瞬間には唇から舌先にまで浸透した体液がまったくの無味無臭であることに妙に感心してしまって、顔つきも定まらないけれど嫌に光っている瞳と向き合っている情況に緊張を覚え、じっと動かすことも出来ないでいたら、どうした理由かさっぱり思いつかないまま、

「この子を虐めたことがある」など奇怪な妄想がさまよいだし、すっかりうなだれてしまっていると、父親が「こうやって慣れてもらわないとね」

そう意味不明の言葉を発したので、赤子の目も同調したのか分別臭く見えてきた。

これはいけない、もう帰ろうと思ったとき、

「もう何年くらい寝小便してないだろう」

などと、他愛もない考えが雨のごとく降り注いでくるのだった。