美の特攻隊

てのひら小説

庭球記

空は乾いていた。日差しは暮れがたのそれでありながら、のびやかな紅色にひろがって閑暇を持てあましていた。小鳥たちのさえずりが朝日を浴びてよく通るよう湿気は不服なく退き、木の葉を揺らしている。

広場に迷い込んだのは子供らであったのか、ぼくの視線はいうに及ばず、今朝と昨日を往復しているようで、しかし、もっと確かめたく近寄れば、随分と過ぎ去った日々から飛来して来たような手まりがぼくを惑わせているのかも知れない。遠目に眺めている限りそう感じるより他になかった。

「こっちに放り投げて」

小さな男の子と女の子が口をそろえて言っている。中空をさまよっていたぼくの目は、足もとへ転がった手まりがテニスボールほどの大きさだったのに驚き、

「ああ、わかったよ」と返事はしたものの、不思議な感覚に頼りきったまま、何度も瞬きをするのみで腰を屈めはしなかった。不親切なわけでなく、ただ地面の雑草にさえ重みを悟らせまいとしているふうなボールに見とれていたのだ。

そよ風が抜けていく。ボールは動かない。柔らかな薄いゴムで作られた形状も然ることながら、気兼ねを知らない素振りをした、いたいけな、それでいて取り澄ました風情の生き物みたいな意志に共感してしまい、児童に対する視線を忘れてしまっただけである。

それから忘れようと努めている情動もすんなり加担してくれたので、なんだかうれしくなって痴呆のような笑みが生まれた。

同時にボールは丸みを残した薄紫色の花びらがいくらか散ったすがたに変容し、風に煽られそうになる手前でもとの花弁に戻り、ひっそりとした美しさを一瞬現して陽光にかき消された。

ボールをなくした二人は離ればなれになった恋人より深い哀しみの影を作り出している。また互いの手にしたラケットの編み目は一層と微風を呼び止め、辺りの吐息を一心に集めているかに映って仕方がない。

陽が傾いた錯覚に堕ちたとき、ぼくの影は短くなり、当たり前といった仕草でボールを拾って投げ返した。

「ありがとう」

快活な声が届いたから哀しみは嘘のように拭われたのだろう、子供たちはバトミントンらしき遊びに返り咲いている。眼球が迷い込んだに違いない、そう確信を得たぼくは誘拐犯が忍ばす歩調をまねて距離を縮め、

「まぜてもらえないかなあ。少しでいいんだけど」

媚ではなく懇願の顔つきでそう訊ねてみた。

二人は自分らの背丈を十分に脅かす雷鳴でも聞いた表情になり、こちらを凝視していたが、ぼくの目線が位置するところを感じとったのか、「いいよ」と応えてくれた。

確信を持つにはあまり四方に意識をめぐらせないことだ。運はごく身近に横たわっている。

三本目のラケットを以前からの借り物みたいに手渡されたぼくは、ようやく空き地に抱かれ、興じれば興じるほどに吸い取り紙で肌を撫でられる具合に汗が引いていくのを覚えるのだった。

子供らは法則に準じる態度で交代にボールを打ち付けてくれた。ねずみのような素早さとせせこましさが微笑ましくて、打ち返すたびにぼくは子供に返るどころか米粒より小さな存在へと連れ去られ、しまいにはボールもそんな様相を見抜いたのか、本当に米粒になってしまった。

「これじゃあ、遊べない」

こころの底からそう不平をこぼしたので、ふたりは困った顔をしながらも「タイム」と律儀に声を張り上げてから内緒話しをしていたが、殊勝な口ぶりでこう提案したのであった。

「じゃあテニスをしよう」

呆気にとられたぼくを尻目に二人は背中合わせになったと思うや、さっと真っすぐ遠ざかりながら片足でびっこを引く要領で地面に線を書き込んだ。

「これがネットってわけだね」

「そうさ」

したり顔でダブルスを組んだ二人と新たな遊びが始まれば、夢中なのはもちろんだったが、どこか意識に変化が起ったのか、段々と気の抜けてゆく風船のように浮いているのか、沈んでいるのか分からない心許なさにとらわれ出し、日暮れを認めたくない不断の意欲は低下するばかりであった。

一方では雨雲を嫌悪する情が羽ばたいて「夕飯だよっ」と、遊び場近くまで呼びに来た母の面影がよぎり、ほのかに胸の痛みを感じた。

空腹より遊戯に没頭していたあの時分、母の声を冷たくはね返しては黄昏れた空模様に遺恨を焼き付けていた。規律から少しでもはみ出すことに目覚め、意地らしく虚勢を張るのを知ったのもこのつたない胸だった。

刹那の想いではあるけど、向き合った二人をよくよく観察している自分に気づき、またもや日没間際を駆ける光景が早馬を操る時代劇に重なって現れた。溌剌とした動作は鈍りしないが、やや緩慢になっているのはぼくが勝手に成長した証しだろう、などと都合のいい解釈でなおざりにし、赤みがかった甘味の感情にすべてを託した。

大きな目をしたまつげの長い少女、方や細面に似合いのつり目の少年、きみらをぼくは知っている。

いや、思い出そうとしないだけかも知れない。回想の最中もボールは間断なく往復された。そして日の入りが反転する情景を作り出し、はっと目覚めたとき、ラケットにみじんも手応えを感じていないのを理解した。ぼくは紛れもなく風船と戯れていただけなのだ。

悪夢とは呼ばせない。むしろ旅先での出会いに近い展開であったから。

 

ところで地獄坂という名を持つ土地は世界にどれだけあるのだろうか。

二人はいつの間にか両脇へ密着してぼくの耳もとにこうささやいた。

「今から死刑を見に行こう」

ぼくらは胸の高鳴りに見合うだけの急勾配に恵まれた坂を勢いよく下っていった。転がる石の気分を味わいつつ。

記憶にありそうで微妙に食い違っている意想を家屋として視覚化してみれば、こうした建物になり、部屋が出来上がる。わずかだがといいながら、実際にはまるで別ものになっているけれど先行した想いが勝ってしまい、眼前を占めている場面は肯定されるのだ。

 

死刑場に入ると二人のすがたはどこにも見当たらなくなってしまった。

これから処刑されようとしている顔に見覚えがあったので、独りぼっちは堪え難かったが、観念しきったその顔には負の磁力が相当働いているようで身動きが利かなくなった。

今となっては他愛もないけれど、誰かれとなくいじめたあげく自らいじめの対象に成り下がった奴ではないか。図体だけは大きくなったようだけど、ぼくと似たふうな目をしている。

ガス処刑であるのが知れた。ヘルメットを被せらパイプから猛毒が送りこまれる仕掛けであるのは瞭然である。配慮なのからだろうか、電気椅子ならぬガス椅子はかなり座り心地のよさそうな豪華な造りで、憐憫を募らせておき、ついでに死を正当化させる企みとも見受けられる。

椅子にベルトで固定された死刑囚は予行演習さながらの面持ちを崩そうとはしていない。いよいよヘルメットが持ち上がったとき、神父もどきの立会人がなにやら唱え、まわりはさすがに静粛な気配を余儀なくされた。

ぼくは身震いしていた。空気が乾いている。震える舌さきでつぶやいたひとことに神経が反応した、誰の。

ふらふらと酩酊した足取りでぼくは椅子に歩み寄りしゃがんで、肘掛けに縛りつけられた罪人の右手を強く握りしめた。

油分を含んだ生暖かくも芯が冷えている手のひらが涙を誘った。一目だけ表情をうかがい、ぼくは言葉を失った。

 

「このラケットは借りておくよ」