美の特攻隊

てのひら小説

憂国忌に想う

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今から43年前の今日、三島由紀夫自衛隊市ヶ谷駐屯地にて、総監室を占拠、バルコニー上で演説を要求。直後、割腹自決を遂げた。 

過激な政治的行動として、また暴挙として事件は一般に流布されている。 

有名作家の壮絶な死は、各方面に尋常ならざる衝撃をあたえ、著作を手にしたことのない人々も騒然とし、書店からはあっという間に三島関連の書物が売り切れになった。

 事件後、様々な憶説が語られるが真相はその出自から幼年期、思春期にいたるまであらゆる分析、評論が試みられ諸説は一貫なきまま錯綜として、今日にいたるまで深き森の中に彷徨える魂の如く曖昧模糊と霧隠れしている。 右翼関係からは神格化されてもいよう。

そもそも天才作家に解剖学的メスを入れ、精神分析学アプローチで内実を探りあてようなど、あまり感心できる所行とは言えまい。祖母をはじめ家族的な環境の要因なども相当詳細に解析されてきたが、黄泉に国の三島にしてみればさぞかしうさん臭い事であろう。

「私には無意識などない」そう言い切ってみせる極北の自意識家。

切腹により自らのはらわたをさらけだすこと、それが最期の自意識であった事が何よりも雄弁に物語る。 

夭折願望、倒錯的傾向、ナルシシズム、ヒロイズムなどは三島のパーソナリィであり、個々の特性は鮮烈にきらびやかな文体に綴られて決してその輝きをうしなってはいない。硬質かつ流麗、時間と空間が織りなすタペストリーの如く、起伏にとみ、幾重にも連なる言語の協奏曲。

美学という幽鬼に生涯苛まれていたとしても、まさに本望ではないか。何よりも楽園であった。虚構と虚妄が重なりあい構築される人工楽園。本来ロマン派の文学的傾向の三島にとって言葉とはもうひとつの現実であり、更に言えば、言葉こそが世界を彩り、切りとる最良の道具であると幼少期より明確に自覚していた。

世界は言葉だけで解釈できるはずであった。

しかし天性の領域だけに甘んじた世間の称賛へ納まるほど、小さな器ではない。むしろ解釈不可能な地平に飛び立つことを希求しはじめた心情は、私たちでもさほど理解に苦しまないだろう。

政治的傾斜にいたる前、すなわち楯の会結成以前は、俳優、演劇、武道に写真集など作家としての文脈から大きくして飛躍して世間をけむに巻き、崩壊への序曲として映画「憂国」を自作、自演、監督もかねて製作している。

そこで展開される青年将校に扮した三島の切腹シーン、、、明晰なる狂気が漂う。

後の作風にも甘美な死の旋律は遊泳し続け、シニカルな両義性を特色とする論理的文体へと曲調が深まるにつれ、急進的に破滅願望が濃厚になってゆく。 

思えば文壇デビュー作の短編「煙草」の一節、

「それはしじゅう自分が合一したく思っていて(中略)あの大きな静謐、私自身の前生(さきしょう)から流れてくるらしい懐かしい静謐と、一つになりえなかったと感じる刹那だった」

そう開陳される言葉には早くも死の香りが揺曳している。 

三島は孤独な死を選んだわけではない。大義をもって命を賭するべきだと自覚していた。それは人工楽園を自身の手で崩壊させる悲劇のアリバイでもある。 

ニヒリスト三島にとって、大義などどこにも存在しないということは自明であるはずなのに、あえて国家論や天皇制にまで言論を跳躍させ、そして行動力をも最大限に可動させた。 

鮮烈な才能はどうあっても、カタストロフィーに導きられざるを得ないのであろうか。三島は小説を書き始める時にはすでに結末は決定していると生前語っている。

 

1970年11月25日。我田引水の伽藍は大きく音を轟かせ、臓物があふれだす胴体と、あの英知な脳細胞を宿した頭部が永遠に切り離された瞬間である。 

 

遺作にして畢竟の傑作「豊穣の海」の最終巻にはあの有名な小節が静かに刻まれている。 

 

「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分はきてしまった、、、」 

 

死が豊穣であるという、おそらく現代科学でも宗教でも哲学でも解明できない暗黒の深淵へと、自重で沈潜して行った三島由紀夫は、前人未到の境地にどの様な面持ちで駆け寄っていったのだろうか。

目くらむ言葉のあやつり。一流のレトリックを駆使し、逆説を得意とした男。永遠の謎である。