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美の特攻隊

てのひら小説

Winter Echo 2

床から起き上がったと見まごう畳が一枚一枚、どんな案配に寄せ集められたのか、表に運ばれたのか、明瞭な光景を思い浮かべることは出来ない。

ただ印象深く、今でも小さな驚きを保ちながら脳裏に広がるのは、畳の下に敷かれていた色褪せた新聞紙が、それまでの抑圧から解放されることの恥じらいにも似た、浮遊をあらわにした場面である。
美代は思わずその日付やらテレビ放映欄をしゃがみこんで見つめた記憶があるのだが、やはりおぼろげのままで時間を明記したわけでもなかった。

ほどなくして威勢よく畳をはたいている兄と父のすがたがまぶしく映りだしたのも、ガラス戸がすべて取り払われ寒空であることも意に介せず、こうして外気が家中に満ちあふれている不思議さによるものであり、また全身を包み込むように触れる冷気は隙間風とは異なり、どこか快楽的な気分をもたらし、兄らが無心ではたき出す風船状に浮き上がる鈍色のほこりの束は、部屋の空気全体を未知なる鮮度に移行させた。
美代は次第に朦々とあたりを充満してゆく異質な陰りに対し、嫌悪とは反対のむしろ幸福感に傾斜した初々しさを覚えた。あふれ出すほこりを通してかいま見せたものかどうか、見慣れたはずの真向かいの玄関先と、木塀はあきらかに日々のそれとは趣きが別にあることを知り、しばらく陶然として視線をうつろわすことを忘れてしまった。

青白く透けてしまうような、ゆらいでは消えてなくなりそうな、そんな手ごたえのなさが現在の意識に揺曳しているのも、きっと年月のなせるわざ、遠い彼方に佇んでいるモノクロームの想い出にはいつも彩色が施されてしまう。すぐ目のまえの情景でさえ、随分と潤色が加味され新たな意味を投げかけてゆく。
淡いブルーで被われたあの日のまなざしをそれ以上、追いかけてみる気持ちを美代は、断念ではなく風化してゆく意想と了解した。遠方の山々の色合いが空のコントラストに呼応しているように。

普段ならば何気なく、おそらく気にとめる間もないままであろう臭いが、恭しく毅然とした香りで家屋全体に染み入るごとく浸透しかけていることもあるまい。

ポリバケツのなかで希釈された清掃洗剤が発揮する独特の酸味をおびた得も知れない果実臭は、ちょうど学校で流行っていた臭いつきの消しゴムがあたえる香水と呼ぶには大仰しいけれど、こじんまりした、しかし一種、味覚へと連動しかけかねない駄菓子のような魅惑が、おおいに溢れかえったようで心地よささえ感じるのだった。

その日どんな手伝いをしたのか、恒例と云っても実際に毎年ああした大掛かりな掃除が行なわれていたのであろうか、幼児期の微かな物覚えに裏書きはない。

「この正月に実家に帰ったとき、母に尋ねてみようかしら、、、」

一抹の抵抗が示されるのを意識しつつ、ふっと微笑みがおだやかに開いたのは、過ぎ去った時の流れに対して抱く複雑な配慮とともに、そんな些事を顧みるくすぐったくなる思いが、互いに和やかな落ち着きを見せるからであり、そして嫁いでから久闊のままに隔たってしまった、母や兄夫婦への遠慮がなせる小さな不安でもあった。

「どうかしら、母より兄のほうが何かと細かいことを覚えているかも」

だが、美代は六歳上の久道との接点、いわば兄妹としてのふれ合いなるものからはおおよそかけ離れた意味あいしか保っていない為、同じ屋根のしたに同居するひとでしかなく、そのよそよそしさはが異性の年長者である故の共通な関わりだと、似た境遇にあった同級生からいつぞや知らされた、思いのほか的確でもありそうな意見を咀嚼していることさえ忘却してしまっていた。

反面からすれば、それは何より美代自身にとってほどよい距離感であることを、あえて意識させる重要性を無化させる風のような思惑でもある。

兄は両親らの役割だと十分に含んでいる素振りを示しながら、時折思い立ったように怪談話しやら宇宙人にまつわる秘密めいた謎を一方的にまくしたてることがあった。

もちろん、世間も世界も見知らぬ子供にとっては、怖れをなしながら胸がときめき、ついつい引き込まれてしまって、後悔と云うことばさえ探りあてることは出来ない。日頃から口数が少ない性格も幸いしてこうした久道の、絵本よりも想像を駆り立てる饒舌な物語に嫌気を覚える理由はなかろう。

遠藤兄妹、このふたりは目には見えないが適正な尺度で定められているかの親和が成り立っていた。ただお互いが意識的であるはずもなく、ふたりをほどよい他者として位置づけていたのは、気まぐれな無関心と誠実な好奇心の綾であった。

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