美の特攻隊

てのひら小説

突破口

そう、いつぞやのL博士にまつわる話しなんだがね、蛇女退治や、公開心霊実験みたいな内容ではないんだ。

心霊実験はさておき、蛇女事件はぼくが当事者といっても過言じゃないかったし、L博士の人物像というか、感性、少なからずも定置に据えたい性格、更に突っこむとだよ、嗜好や奇癖がどうした具合に眼前に展開しているのかってところまでは見切れていないわけだったんだ。

が、今度の逸話は変人扱いなんてレッテルのだね、いわば表面の文様絵柄よりもその粘着性がよく了解できたと思う。

というのは、人間の評価なんて一面だけもしくはごく控えめに反面を見聞して、しかも受け手側の独断に少なからず左右されるものだろう、客観的な認識なんて小難しいことを持ち出すまでもないさ、己の好都合が常に優先されているに過ぎないからであって、これは見方ではなく関係性をどう解釈するかって気分なわけだ。

無論ぼくはそうしたあり方を非難するつもりなんか毛頭ないし、批判的態度を胸にため置くほど興味があるわけでもなければ、逆に世情人情と受け流す器量を持ち合わせてなんかもない。

ところがだよ、張りつけられたレッテル、シールはだよ、はがれやすいとか、はがれにくいとかって問題じゃなくて、何故そうした粘着度を得たのかって疑問に滑り落ちるんだ。

まるでゴキブリホイホイにでも飛び込んだ気分。

例えはよくないけれど生死以前の感触だから、そう、勝ち得たのさ、誹謗中傷だの陰口だの、揶揄や軽蔑にしても、まれに賞されたり、感心されたりしても、黙殺よりかは遥かに存在意義ってものがあるような気がするからね、あくまで気だけだけど、、、前置きはこれくらいでいいや、で、これまた老年にいたる以前のL博士の語りだから、おっと、だからこそまっさらな白紙が最初から黄ばんでいたのが、うかがえるってもんさ。

しかし粘り気だけだと片手落ち、話しの上っ面も必要なのはいうまでもないね。

若さゆえになんて文句に一切合切ゆだねようなんて青臭い戯言を吐くほど、懐古趣味を引き寄せたつもりなんかない。

モット・ザ・フープルの「すべての若き野郎ども」で歌われているように伝えたいだけだ。

 

 

幻想の産物に関する感触、例をあげるなら入眠時幻覚におけるあのリアルな視覚像と、とてつもなくシリアスな幻聴耳鳴り、うらはらに浮き世から遠ざかったのだと恐ろしさが夢でコーティングされた心持ちは捨てがたく、それらが渾然となって我が身を異界に誘う、あのまさに微動だにならない金縛りの夜、はたまた、炎天下で髄液がやられたのか、沸騰にまでは至らないがかなり熱を持った影響で面前を覆う、鮮明な異形の群れと、死の世界で建築された気高き景観には恐れ入る。

ところがL博士の心地といえば、どうしたことか小遣い銭を握りしめて駄菓子を買いにゆくようだったというのだから、さほど実験精神を胸に抱いていたのわけではないのだろう。

が、間違いなく博士は妙な場所へと足を踏み入れてしまったと思われる。

路地のさきに見かけない商店があって、地べたアスファルトにチョークで品書きされている、幸い車両が通れるほどの幅がないのをいいことに風変わりな営業をしているものだと、感心ともつかないけれどふと立ち止まってしまった。

コーヒー、コーラ、ジュース、三百円、ただし初回につきすべて三千円。

さすがのL博士も怪訝な顔で見つめていたのだが、こう判断したらしい。

「これはつまり入会金を意味している。ただの商店であるまい」とね。

よほど太いチョークで書きつけたみたいで、内心投げやりなのと小馬鹿にした感じを居並べつつ、足底で踏みつけながら店内に向かったのだったが、品書きの白い文字はかすみこそすれ、灰色の地べたに消え入ることはなかった。

ドアの左側に窓があり三人の大人が睨みをきかせた目つきで博士をじっと品定めするふうに無言で立っている。

好奇心が勝るよりも警戒心にとらわれるのが当たり前だったので、思わずひるんだけれど、何となく癪にさわり平然とした表情を作ったまま、棒立ちでいたのだった。やがて窓のなかのひとりが目配せをした。

見ればさながら道場の看板のごとく物々しい代物に、

「入らずんば速やかに、迷うことなくば軽快に」

と、墨書きされており、これには戸惑うより大いに発奮し、口を開くことなく店内へ吸い込まれれば、窓の三人とはうってかわってにこやかな気色をした若い女が「どうぞ、お好きなお召し物を選んで下さい」まるで貸衣装でも借りに来た客を扱うような物言いをする。

そこは薄暗く、貸衣装でもない、ごくありふれたシャツだのネクタイだの上着が無造作にハンガーに吊るされているだけである。しかも有料だというので仕方なく適当なジャケットを借り受け羽織ると「どうぞ、こちらへ」いかがわしさにあふれた気配をものともせず、が、その声のなんと冷涼で気品のあること。

L博士はこの時点でもはや日頃から抱いている怪しの領域を自ずと開拓した気分になってしまい、言われるがままに決して清潔とは呼べない廊下を抜ければ、そこは私設体育館とでも形容したい中々の広さを持った空間が待ち受けており、はたと合点がいった。

「やはり道場であったか」

そこまでの眼力は間違ってはいなかったし、不信感を捨て突入を試みた気概は非難されるべきでもない、ただ、L博士の眼力の本質がこれほど鮮やかに受け入れられるほうが不思議さを通りこして、ぼくらにある種の感銘をあたえるのはあながち見込み違いでなかろう。

さて博士の両目に映ったのは先ほどのほこりがたかったような陰気くさい小部屋ではなく、煌々とした明かりの下、それぞれが、といっても若者以外の顔は存在せず、男女同人数が誰の指導を乞うている様子もいままに、好きな方向に目線を投げかけ、いや、宙に彷徨わせ、身体の動作もまばらなら、もたげた心情も様々らしく、どことなく共通に思われるのは目鼻立ちが表した恍惚と嘆き、喜悦と悲しみがちょうど紅葉の盛りに彩られた深山を訪れたような趣を呈していることであった。

色彩の鮮烈さとくすみが折り重なり合いつつ、晩秋の冷気に反意をしめし、のち感謝の念に転じるであろう。

心もとなさがL博士の胸にせまった。

彼らは競技の準備体操をしているとも、自由連想に基づいた身体放出を演じているようにも感じられ、が、上着を貸しておきながら、なかにはほぼ裸身の入れ墨を施した坊主頭の青年が床を転げ回ったり、かと思えば、生真面目そうな事務服を着た女性が首をふりながらよだれをたらしており、しかも指導者らしき人物の影が目を凝らしてみても一向に見当たらなかったので、L博士は次第に尋常さを逸し始め、せっかくだからと明々と照り返す床に身を横たえ、どんぐりころころの歌なぞ小声にしながら、解放なのか、放縦なのか、さては無防備なのやら、脳裡に意味を求めることなくしばらく若者らに入り交じってみたのだった。

ぼくの理解できる範囲はせいぜいこれくらいであり、その後の博士の挙動には正直なところ同調は少々で、残りは不可解な凡庸でしかなかった。もっともこれは軽視でも失望でもない。ぼくがもうちょっと悪のりを好む人間だったら、別な意味で心底落胆していたに違いないだろう。

L博士はどんぐりの歌の長さを知っていたにもかかわらず、似たように床に寝そべったままの女性に何気に近づきその束ねを解かれた長い毛髪のかびのような匂いに魅せられ、次には一周してからまた接近するという不審行動に走り、立ったまま首ふりしている人数も念頭にあったので、一層どんぐりの唱歌も高らかにスカートの奥に視線を送る方法も瞬時にして身につけたのだった。

関節に痛みを覚えた頃にはこの道場の生業がおぼろげにわかってきたらしく、さすがに立ち上がり辺りを冷静なまなざしで見回し、体育館に通じた廊下に向かおうとしていたひとりの女性のうしろに駆け寄り、声を出したまではよかったのだが、ここに来てどんぐりの歌以外、誰ひとり口をきいてないことにたじろでしまい、「あのう、ここは何というところでしょうか」

と、しどろもどろで尋ねたところ、恍惚とは無縁であるというふうないかにも利発で物怖じしない顔つきをした、それでいて愛嬌をうっすらした微笑のうちに潜ませた肌の透き通った奇麗な女性が、

「わたしも知りません」

そう丁寧とつっけんどんの半ばくらいの口調で答えた。

「ならば」と言いかけたL博士の質問を見下すよう「数年前より通っていますけど」とこちらの腹を感知した様子で愛想笑いを艶やかに浮かべたのである。

ぼくが博士に同情の念を禁じ得ないのは、そんな凡俗な対応に、また無邪気さとは言い切れないぎこちなさにあって、もっと言えば、本人は十分気づいているはずなのに、余計な失態をあえて見せつけ、その有様もすでに若い女性の色香に対してではなく、我が身に返り血を浴びることの悦びを先取りしてしまった邪念に他ならなかったのでどうしようもない。

そつなくその場から立ち去ろうとする意思に逆らう気概が天性のものであるかのごとく博士は振る舞った。そうすることでより明確な自分の立場を知り、自嘲を恥じらいと切り離せるのではと。よぎったのは酔漢の反復意識に近かった。

「ところで、ここでは自由恋愛なんかもおおらかなんでしょうね」

これがL博士の捨て台詞であり、道場に捧げた悲観であった。

「そうした欲望や身についた垢を払い落とすのがここの集いなのです。誤りのないよう願います」

女性は笑みを草花のいばらに変え、博士に背を向けた。

呆然と立ち尽くす時間も計算通りだったから、その目は遊戯に耽ったさきの食傷を予感しており、わざと重たげな足取りで帰ろうとしたとき、きっと見落としたのだろう、親戚の子が進学受験にと勉強部屋をあてがってもらった記憶が吹き寄せ、しかもそっくりそのまま室内が再現されていたので驚いてしまった。

だが、積み上げられた参考書や文具の類いがやけに生き生きしているのに、そこは無人だったそうだ。