美の特攻隊

てのひら小説

化粧2

美代は穴があくほど今日はじめて目の当たりにした陽子の顔をうかがったわけでもないのに、自分の家に帰り夕食をすませたあと母と一緒に銭湯に行った際、背中を流してもらいながら湯気でくもりかけた鏡に反射するおさなげな表情が、より頼りない造作で目鼻だちを並べてあるように思えてしまい、いつものことながらこうして母にからだを洗われている無防備な体勢によくわからない羞恥が浮き上がるのを、躍起になって打ち消したい焦りにとらわれた。

意識をべつの居場所に案内させたいのか、それともタイル張りの浴室に反響するほかの入浴客の声や、気持ちいいほど軽やかなそれでいて不意をつかれたときのとまどいのように風呂桶が、床へカランと響く音がおもわぬ居心地のよさをもたらしたのか、湿り気に濡れた鏡にしたたる汗となったしずくが悲しげな風情をつくりだし、美代の面にゆっくりと重ねあわされるふうにして陽子の笑みがあらわれるのだった。
驚きを隠すすべもない美代は振り返ることさえ自分の胸中を母親に悟られてしまう気がして、しきりにかぶりをふってさも石けんの泡が目許にしみる素振りで、そっと鏡に映る母の裸身に目をやった。

最近、少し小太りになってきたと子供ながらにも一抹の感慨がもたらされる以外母のすがたに特別な興味があるわけでもない。

しかし、さきほどふっと霧のむこうに面影が見え隠れするよう出現した陽子の微笑みから素早く追想される混濁したものの正体を見極めるに、この場がふさわしくないのはかねてより夜具に包まれた安寧と眠りの世界がさしせまっている就寝前が何かにつけ最善であると信じていたことで、恋するものはたえ忍ばなくてならない、と云ったメロドラマによくある様相をおぼろげに受け止めてみた。
「美代ちゃん、はい、じゃもう一回あったまってからね」
いつの間にやら洗髪まで済まされてしまったときの過ぎようを不思議な感覚でなく、至極あたりまえとしてとらえたことが何故やら誇らしくもあった。

日中との寒暖のひらきはさながら罪深い火のしもべがこらえきれない情念を世にさらけだしているように、その夜が底冷えしたことがかろうじて脳裏を巡ってくるだけで、しかもこの病室からでも体感出来そうなくらい、ここ数日が同じく真冬とは呼ぶにふさわしくない気候であることのほうが、反対にあの幼少時代の記憶を裏打ちしているのか、残念ながら闇に占拠された畳部屋に連ねる両親の布団の脇へ灯る、ぽっとした明かりを見届けたどうかすら危うい記憶の貯蔵庫に、かの想い出は眠っていない。
初見の印象を追い求める意想が、かたくなな意志と云うよりもあくまで形式のこだわりによって善くも悪くも脅迫的な記念碑を打ち立てようとするちからに誘導されるのは、まさにひとの業であろう。
現在から振り返ってみれば、映画のプロローグをまねてみたい心情が発生するのも首肯してしまうところであるけれど、いまは養生に専念するため日々の生活から解放された身、クライマックスが伏線なき切り取りで再生されるのは興趣に欠けるであろうし、何より時間の住人であることを避けて通ったとしてもそこには、たくさんの忘れものを残してくることが懸念される。

細部にまで追想の手をのばし続けるわけではなく、もっとも鮮烈な体験や感情が織りなす綾をいま少しだけひもといてみるのも無駄ではあるまい、、、
美代のこころはすでに決定された脚本に忠実であるよう、こうして手鏡を慈しむまなざしで過去のなかへと旅だってゆくのであった。

 

「ねえ、そうそうこのあいだのお祭りの日、お話は出来なかったけどお互い気づいていたわよね」
「うん、陽子ねえさん、わたしのほうじっと見てたから、ますます緊張しちゃった」
正月を越し、毎年催される二月の祭礼の最終日、海岸線から幾筋か隔てた古くからある街道沿いにて子供たち主体の手踊りがくりだされるのだけれど、今年で連続三回目の参加となった美代の七五三以外では施されることのない念入りな化粧すがたに毎回、感嘆の声をあげるのはものの見事に年かさ順であり、まずは待ちかねた気持ちを押さえることなく満面に笑みをたたえながら、ほんとう美代はこうしてみると将来たのしみなくらい可愛らしいね、と祭りに集まった孫をもつ老夫婦らの紋切り型の称賛が円満にささやきだされ、続いて両親、わけても母がおさな子を見守る目のなかに同じ女性としての本態さえ匂わせるような、
「美代、お化粧すると一変するわね、お母さんも若くなりたいわ」
などと、我が子でありながらすでに失われてしまった自分の思春期あたりを、胸裏にかえり咲かせるのか大きくため息をついて見せたりするのだった。

父と兄とは美代が初参加した折こそ、目新しい発見を求めるような気概でありあまるよろこびを託していたのだったが、父は青年部の寄り合いの酒盛りやつきあいでそうそう美代を見守り続けているわけでもなく、久道と云えば生来からの出不精なのかひとの群がるところが苦手なのか、家でみんなを見送ったあとはひとり読書に耽ったりして、やはり兄妹の距離を律儀に保っていた。

が、これは過信かもしれない。

おぼろげな意想がくもり硝子の不透明さのなかへ実相を呼びこむように。

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