美の特攻隊

てのひら小説

化粧8

望美の瞳の奥に棲んでいた蔑みに近い怒りを、今でも美代ははっきり思い浮かべられる。
大人になってさえしばし見出すことのある、近親者が見せる憚りのない突発的な憎悪の露呈。

いたずらに直情から噴出した遠慮のなさと云うより、親兄妹だけに許される技巧が隠匿された汚水の浄化。

昇にしめした彼女の目つきには実のところ、いきどおりへとすがたを変貌させた揺れる胸間そのものであって、他人である美代が介在したお陰でなおさら怒気は強調され、剣呑に自らを失うことなく一縷の親和でもって、平素の結び目を取り戻し、自然にもとの鞘へと納まってゆくのであろう。


美代は普段から兄に小言はともかく、こっぴどく叱らたれり嫌みをあらわにされた思いがないだけに、どこで見聞きしたか判然とはしないけれど、そうした情況がある意味うらやましくもあり敏感に察してしまうのだった。

おそらくは陽子に対する憧憬もその辺りから、深いさきの世界などつゆ知らずとも、ちょうど煙幕に遮られた向こうにほのかな人影を探りあてるように、瞭然としたかたちは為さなまま、ことばになる以前の触手としてとらえていた。
昇の暴発に狼狽したふりをしてその場を、と云うより正直なところ美代自身が取り乱したくなかった理由は、当然だがおもちゃの弾丸であっても思い切り命中した刹那はともかく、はっと我にかえったときには奮然として思わず手をあげてしまいそうなくらいだったので、間髪を入れず弟を鋭く詰問しながら憂慮をはらい、そして眼光を昇に差し向けたとき、すでにある種の敗北を感じてしまっていたからである。

 

形式上においても道義においても望美がとっさに示した態度に微塵の落ち度はないはず、もはや有無を言わせない情勢を受けとめるしか手だてのない美代は、じんと腫れている右目に覚える痛みとともに、短い憤怒も鎮火させてしまい、代わりに訪れたのはそんな場面が兄久道とでなく、陽子といつか再現されることを切望すると云った逃避的夢想と、弟を思いやる気持ちを底辺に認めてしまっている自分のどこか意地汚い鋭敏さに対するとまどいだった。
以前より美代は両親に限らず、まわりのひとたちに軽く応対する場合でも、必要以上に身をこわばらせてしまう癖があるよう思えて仕方なく、もっとおさない時分など、
「この子はよく人見知りするもので」
と、今はそれほど顕著でなくなったけれど、当時そう申し開きをしていた幾たりかの人物の顔をよく想起出来るほどであるのが、ことさら口のなかを苦みが走るときに似た違和感を呼び覚ました。

もっとも自己嫌悪に陥ってしまうくらい強い思念であるわけではなく、枯れ葉の重なりに等しい薄くたより気ない見映えをもつ瑣末な齟齬であり、又からっ風にあおれて一葉一葉が自由に宙を舞っているひとときの気ままから来るこころ細さであった。


「久道もかなりでなあ、親戚のおじちゃんがお土産だって言ってくれてるのに、ふすまのうしろに隠れてしまってな」
前に祖母から聞かされていた兄も同様な性格である事実も、胸のうちに薄膜が貼られているみたいで、そんなときだけ兄と妹だと云う確信がにわかにたかまり収拾のつかない勝手な意想に落ち着いてしまう。

幼少のころなどは特にそうした現実面を発見する度に万事につけ何事も礼賛するものだ。

見るもの聞くもの触れるものらが常に刷新されている夢見はまだまだ揺籃にあり、美代が懸念するまでの神経は酷使されていない。

ただ、大人とは別の部分で取るに足りぬ僅少なことがらを、それこそ虫眼鏡で拡大し目に飛び込んでくる大仰さで受け止めてしまうから、やはり夕暮れを境にした魔物たちの暗躍に空想から越えたものを、げんかつぎを、真面目に信奉しけっして疑ってみようとはしない怯懦は、昆虫類が身近にある季節があたりまえ過ぎて実感がわかないように、だが彼らのちいさな命も冬の到来で消え尽きることを理解しはじめた不確かな自尊心が脈打ち出し、頼りなくもそこに答えを見つけようと努める細やかな回路を知った以上、この身を萎縮させなければならなかった。
羞恥に近い燻った意識であることを消し去ろうとする葛藤は、こうしていつの間にやら美代のこころに沈潜していた。

だが、沈みゆく船上から最期まで海面を見届けてしまう自棄と同じく、少なくとも我が身を案じることだけに収斂する業に縛られる老成までには至らず(まだ屹立とした自我が形成されていないから)惨事を明瞭に把握しなければならない桎梏から猶予を与えられていたのだ。


望美から苦言を受けうなだれている昇の睫毛の長いはっきりとした二重の奥に潤んだ瞳は、おさな子が持つ切なさ以上の真摯な了見を潜めているように美代は感じた。

すると何故かしらその深い切なさみたいなものが冷たく輝いてこちらに明滅しているのではと、ちょうど夜空に散らばる星々を見上げたときのきらめきが、遠い感情を呼び寄せるふうに粛然と映じるのだった。