美の特攻隊

てのひら小説

化粧11

その一室に満たされている僅かな匂いは、落ち着きを忘れ、狐につままれてしまった美代のこころを見守る役目を果たしていた。

同い年の望美が発散させるものと異なるのは、あくまで近場で計られる駆けっこみたいなものであり、そこには期待が生まれる条件や、一瞬にして鳥肌を浮かびあがらせる異香が付与されておらず、すでに要請された馴れ合いで薄められており、決して湧き立つことがなかったからである。
予想外の地平が胸のなかにひろがる可能性は、どこまでも続くであろう線路が提供してしまっている負の側面、単調で凡庸な連なりに、見た目には余韻を残していくようでも、その実あまり感興を生まない轍に似ていた。

裏返せばやはり夢想を巻き起こす温度差が少なかったと云える。それだけ同年の感性は良くも悪くも隣どうしに並んでいたのだ。

ところが年長からの知らしめは常に未だかつてない魅惑の鱗粉をまき放ちながら時間のうえをすべってゆく。

目くらましにあったときに覚える不安と同居する興奮をついぞつかまえられないように。


そうした情況は例えば、親しくもないけれど学校内では見かける上級生がどういうわけか、鬼ごっこに加わっていてしかも鬼の役であることから来る得体の知れないおののきであり、ましてやいきなり塀のうえからひょいと顔をのぞかせる折に身震いをもって感じてしまう、圧倒的な醍醐味、そう極めて上質な遊戯を味わうひとときなどであった。
幼なごころに弾ける豆鉄砲のような喜びは一見他愛ないけれども、ある定理で結ばれている。

他でもない、年齢差が算出する未知数への挑戦であり、それはまた絶対的な直線に物差しをあててみる現実性に培われていた。

大人になればなるほどに、言い方を変えると、ときの過ぎゆきを体験すればするほどに濃密だったはずの世界は希釈されてしまい、ぼやけた分だけ無理してまで修正しようと躍起になるのことを当たり前と信じ込んでしまうのだけれども、小さな躍動のうちには紛れもない凝縮された無垢なる時間が燦然と輝いている、その明るさに気がつかないのはもちろん罪なことではない。
明暗がこころの奥底に漂いだす年頃にはじめて異性を意識しだすと云うのはある意味理にかなっていよう。

彼らは光輝が放たれている現実に罪を被せて、あまつさえその場所が禁じられた花園であると見立てるすべを学習するからである。
ここから色香にまつわる感覚を差し引いてみれば、純粋な培養は陸離として年少期に沈潜しているのが分かるのではないか。

肉体の発育がどの世代に比べて急速であるにもかかわらず、こころの発達は一番の感受性を萎縮させることをもって豊かな想像を育成してみせるが、思いの他それは偏狭な羽ばたきであり、矮小な空間を押し出す単一な作業なのだ。
美代は年上の陽子に惹かれたわけを明確に知る由もなかった。

ただ、幾らかひとより感性の伸縮が自在であって、ゴムのように明朗な一面を持ってはいるけれど闊達な性質とは呼び難い、詳細が見通せず形の定めにくい模様以前の白雲であった。それゆえ陽子の空模様に入り交じる運命をひたすら願っていた。

美代が信じていたのは、戯れと運命が別れ別れになってしまうことを疑わない眠れる宝石だった。
「やっぱり明かりつけなかったからはっきりしないけど、ほんとうはね、ぼやけたふうな具合に写ればなあって思ってたの。よくあるじゃないブロマイドとかに。そうすると美代ちゃん、もっと大人びて見えるんじゃないかって」
陽子のうしろを影のように付き添いながらこうして物おじしている気持ちさえ曖昧になりつつあったのか、出来上がった写真を手渡さされるまでの間、視界に入っていたはずの場面はすっかり止め置きを忘れてしまったようで、やはりこの部屋から香っている言葉に出来ない印象のなかをさまよっていたのが、長い時間であったと感じられる。

当惑がやんわりとごまかされたのは追い風にあおられたそんな嗅覚の為せるわざ、そうぱっとよぎったりもしたけれど意識が別のところに張りつけられている実情は、ちょうど喚声に驚いて窓の外をのぞき見る衝動と同じく無意識のうちに稼働し、楽し気なのか、切実と問いかけているのだろうか、よくつかめない陽子の感想が次第に説得力を帯びているように聞こえだす。


「どうしたの美代ちゃん、気に入らなかったのかなあ」
「そんなんじゃなくて」
陽子が心配な顔をつくりしみじみと見つめている視線がじりじりと熱気を持ち始めてしまったのではと、気にかかり、返答に窮している自分がどこか惨めに思えてしまって、写真に収められた異相に向かいあっているのに互いのこころは宙ぶらりで、増々別のほうへと泳ぎだして収拾がつかないまま、頬の火照りが耳たぶまで類焼してゆく様を思い知らされるのであった。
陽子はこわれものをのぞきこむ素振りで美代の羞恥をどう解釈していいのか、又どう対処するべきなのか迷ったみたいで、
「びっくりしたんでしょう。ごめんね」
そう、腹の底から浮上してくる想いをことさら優しい声音でもなくさらっとしたふうに口にすると、まだふたりして畳にも腰をおろしてなかった性急さに気づき、安閑な態度を取り戻そうと念頭にのぼった矢先、まったく予期していない行動へと移されてしまった。
「おねえちゃん」

いきなり美代は身を寄せてしまった。
胸へ飛び込み、斜になっまま涙声になっている。

立ちつくしたまましっかりと両手をまわし妹と同い年である子に悲しみをあたえていることが、夢の出来事のように思えてくる。
陽子の胸もとの弾力は自然とその悲しみを深めた。

美代にとってそれは説明のつかない甘い香りに包まれた夢であった。