美の特攻隊

てのひら小説

化粧12

あのとき感じた、神妙に引き締まりながらもどこかへ吹き流されてしまいそうになる安楽さが、どうした加減で発生し、わたしの胸のあいだに渦巻いたのかよくわからない。
そして二階から見下ろす隣の庭がいつもの平静で認められる何気なさ、、、切迫した情況であった距離を引き離した優雅な空想の源も、雲間から自若として照りつける日光のごとく、手の施しようがなかった。

間近で惹き起こされる悲しみに進んで耽溺してゆくすがたを、もう片方の自分が沈着に見届けている。
いったい何に期待を寄せているのかさえ不透明な動揺は、砂時計がしめす無音の世界を窺わせていた。

極度に狭まったくびれを抜け落ちる刹那に覚える、あの瑞々しくも鮮烈な手触りと、息をのまずにはいられない過剰な共感。

それでいて動悸は決して時間にかかわりを持っていないような、あるいはモノクロームの映像が網膜に焼きつけられる際に想起されよう、逃げ去る空間。

 

陽子の心境を占い師のように先んじてくみとってしまうのは仕方ないことであり、冷静な自分は、悲哀に染めあがろうとしている感情のうねりを覚えつつ、脈拍の維持をとめてしまい、あらぬ対話を脳裏にこだまさせた。
「ごめんね」
ぽつりとささやかれて、美代はまっさらなノートに鉛筆書きしたときに知る甘美な失望を得た。


すでにわかっていた、いいえ情況を把握してたのではないわ、わたしが理解したのは、背後からのぞき込むようにうなずいているお人好しの隣人みたいな歓び、、、かくれんぼや鬼ごっこと同じ性質をもった野放しの緊張感、それらがいかにこじんまりとしていようが虚しいかな計るすべはない。
望美が自転車の修理に出ていないと聞かされた瞬間から、美代はあたかも洞窟の入り口を目の当たりにして闇の到来へとすべてを託したように、戦慄さえ懐柔したふたつの眼光を怜悧な指針とみなす遊戯に惑溺してしまった。

だが夢見た当人である以上、その見聞はわたしが引き受けるしかない。背伸びでもなければ羞恥でもなく、ただ自分の夢を守ったに過ぎないのだから。

はがれ落ちてしまう化粧をひたすら懸念するように。

 

光線は陽子を宝石に仕立てあげた。

階段で振りむかれたとき髪の毛がさっと突風に煽がれたふうにも映り、その偶然の裡に忍びこむように、いま異国の空気に取り巻かれていると嘆きつつ微笑し、寸暇に別れを告げる連鎖へと旅立っている余情を満たしながら、幾すじかの毛が黒目のうえを被い肌にまとわりつくまで遠近の曖昧な洞窟を駆け抜けていた。

そして新たな輝きに包まれた。
待望していたのは確かに等身大の自分が変貌を遂げた写真だけれど、さらに欲したのは、そこから煙のごとく浮かびあがって、この世からはみ出してしまう純粋な想いである。
美代の生霊を橋渡しさせる為に必要だったのは他でもない、成熟にはほど遠くまだまだ青みを留めている肉感を宿す、子供の目から見ても大人に成りきれてはいない柑橘類に直結する溌剌とした味覚だった。


それはいつの日か、陽子の同級生らしきいかにもませた口調でまくしたてる、何回かこの家で居合わせたことのある黒ぶち眼鏡の女生徒から漏れたひとこと、
「あのさあ陽子、こないだのことだけどもっとくわしく教えてよ。とぼけてもだめ、いいじゃない誰にも話さないから。ねえ、したんでしょ、キス」
別に聞き耳を立てていたのではなかったが、陽子の部屋に昇がいるかも知れないから見てくると、階下から声を出して呼んでもいつもながらで返事もない弟を昼寝させるのに連れ戻すため、さっと小走りにしかも軽やかに階段を駆け昇った望美は、帰りはえらく足音を忍ばせながら美代に近づき、

「今さ、お姉ちゃんたち内緒話してて、それが、、、」

目が笑ったかと思ったら美代の手をとり、もう一度二階へと今度は慎重にかまえている姿に圧迫され腰が浮きかけたけれど、そう執拗でもなかった誘いに、

「わたしはいいわ」

そう断ってからひそひそと会話の内容を望美から聞くに及んで、瞬く間に顔面が上気していくのが意識された。

言うところによれば、新学期までにしたとかしないとか、どうも男女間にまつわる生々しい秘められたことに関する話題らしく、それで姉はどうもすでにキスは経験ずみだとその口からはっきり聞いたからと、最初はおっかなびっくりに目線を下げ気味に喋っていたのだったが、段々興がわいてきたのか、去年の夏休み臨海学校の際、宵闇があたりを覆いつくした頃、先生を囲んで行われた怪談に心胆奪われてしまった衝撃の再来とばかり、話す方も聞く方も五感が研ぎすまされてゆくあの冷ややかな体温の下降にのみ込まれ、やがて上昇してゆく頬の熱さでからだは苛まれ置きどころを失ってしまうのだった。

姉から放たれた矢尻は深く妹の喉仏に突き刺さり、その声色に異変をきたしたときには語感がまるで鐘の音のように響きわたって美代の胸に沁み入り、また消化を司る機能が十分に役目を果たす健全な自覚を得たときと同様なのだけれど、異なるのはどこまで入っても足場を保てない底なし沼に引きずられていきそうな予感であり、夜更けの天空を見つめた眼球に還ってくる、孤独の支えになろう浸透の気配だった。