読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

美の特攻隊

てのひら小説

梅月譚

我が胸奥に仕舞われたるまこともって不可思議千万な一夜の所行、追懐の情に流るるを疎めしはひとえに奇景のただなか、夢か現か、ようよう確かめたる術なく、返す返すも要職の重しに閉ざされたれば口外厳に禁じられたるところ、斯様な回顧もまた御法度なり。

されど案ぜられるは後々の子孫に降るかかるやとも知れぬ怪しき口上、姓名は憚れし上役殿より仰せつかるる役目を果たすも後に謎めく声色、さながら狐狸に誑かされ、或いは巧妙なるはかりごと裏方にてひしめいていたのやら、今となってはただただ隠密裡に運ばれたものよと、大義を滅するは畏れ多く、自戒の念こそ頼みにするばかり。

しかるにこれを記すは当家筆頭たる矜持、かく云うところの戒めを破らん所為なれば、未来永劫我が身焼き尽くされようとも泰然として承引いたし所存、業火に包まれたる念いの先、これ紛うことなし末裔に捧げられよう。

 

足袋先かじかむをつと忘れもせん如月の頃、御庭番末席を汚すばかりこれまで殊更際立つ任務携わるゆえもなく、戦国の世ならいざ鎌倉の心意気、日々本懐なりと唱する声も低く沈みける。ここへ降って湧いたかの如く、上役殿から此度の指令、心拍気高く打ち、我が面容鏡かざして見るまでもなく閃光発したかの輝き、浮き足立つ勢いなだめる有様ながら、しかと拝聴仕れば、さてさて風変わりな伝達にて候。

紀州藩武芸指南役なりと耳に入れしところ身の引き締まるを覚えたるも、我が藩に梅図左衛門と名乗る御仁かつて聞き及びなき、されば異名にて暗躍されし人物かと思い巡らしたり。

須臾の間、上役殿の申すに秘して行動を計るべしとの言、まさしく真意奈辺にあるが如し、返答に窮する始末。常より眼光鋭利な顔色に仄かな微笑こぼれ、そこもとには合点いかぬところもあろうが、明日の夕刻を待って指示通り歩を進めらるがよし、上役殿には珍しき薄いもの言い、元来の務め今更目覚めるかと思し召しに本然たる姿知りたまう。

さて明けた日輪の翳りを頼って北西の山中目指し候。草深き土地なれど迷い込む恐れ毛頭あらぬ、たかが三里の隔てなき地続き、平安こそ胸を去来すれ遅疑いっこう訪れず。

使命に即する思惑、春を望む人肌より放たれる上気にも似て裏面に隠されよう暗黒の魔手、黄昏と目配せくばせする風趣なぞ木々の隙間に覗く加減、湯上がりの長閑さを彷彿させては、道行く者もなき山路に人恋しさを運びゆく。

鉛垂れ込めし夕空とまだまだ息吹を許されぬ山地、何処より届けられるものやら、薄絹が擦れ合うようなか細い、木の葉のざわめきか、崖下に聞くせせらぎの気配か、はたまた稚児の無邪気な鼻唄かと、その寂しさ一層募らせつつ遠近に流れゆき、陶然として草木の彩度に宵闇認めさし、にじます山稜を見遣りけり。

灯火用意いらず、梅図左衛門の見参まさに瞭然の合図、その人影を大きく見せる按配にて、山向こうに落ちた陽の名残りこそかの提灯とこころ揺らめき、その場にちから止め置かれよう。

互いの間合い、神妙なる微風こころ得し様相、燗酒なぞ引っ掛けし頬の火照りを、冷ややかに撫で付ければ、自ずと背筋へ活力が付与されし。

留意すべく箇所、我復誦する猶予の裡に火影近づき、決して我から先にもの申すではないとの命、かほど容易きにて明朗、さしずめ謎掛けに狼狽することなく嬉々として眉目を緩める呈なり。なれば逢瀬の高揚その場で立ちのぼってみるも不思議にあらず、徐々にあらわとなりかけた待ち人の面妖にこころ打たれたし。

なんの戯れ、かの御仁、夜景から抜け出だしたと見紛う漆黒の紋付袴、如何にも隆とした身なりもさることながら、髷も一緒に隠されたるのが甚だ愉快に感ずる次第、一体かの狐らしき御面いかほどの意味合い授けられているのやら、小首を傾げた我、怪異な気分を拭いきれないのも至当、とは申せ唐突なる異変に対峙したまい感慨は等閑に付されし所存。

家紋と知れる巴を描いた白きしるし確かめる間もなく、武芸指南役たる身分と姓名を怪鳥鳴り響く勢いで我に告げたれば、洞穴の奥へとまなこ引っ張られし如く鮮烈なり。左衛門殿まるで黒蛇がとぐろ巻く様態にてゆるり身を翻しながら、我の本体を詰問する素振りなき、ただ後ろを着き歩くこと促すのみ。

羽織袴はすでに夜風を含んだと見え、得も云われぬ弾力が全身みなぎる剛毅を養い、その反面抜けゆく浮いたふうな足どりに飄逸なるもの感じ入れし。

我、鬼哭啾々たる山間進まず、意識混濁、視界灯火のみにて在りき、行く手なお知るよしもなし、胴体より上もはや宙を滑り異空へと誘われし候。まどろみにも等したゆたう風光のなか、それが一点のねじ巻きの如く僅かな緊迫保たれたり、即ち帰還せざるは相成りや、上役殿とて異界の変化ならば、この身はどこぞ彷徨う宿命たるか、それにつけても捗々しい技量なぞ持ち得ず、風采上がらなきこの身など惑わしてみたところ、さてどの様な価値を見いだし得るのやら、いやはや呑み込み難きかな。

疑心ならほどけよう闇の間口、引き返すこと能わず、増々提灯の揺らめき左右に乱れれば、枯れ草踏む足音消え、耳鳴りと思われし能楽のみ脳裡に反響せる。

桃源郷の開けし予兆、理屈にそわぬとは云え、兼ねて知人より風雅に語りたもう梅林の宴、興趣そそられしこと羨望に至りて、この妖かしの源に棲みつけたり。ものがなしきとなぞは仮令ばかり間を持たず妄念羽ばたかせ、狐の御面を被りし奇天烈な御仁を追えば、必ずや馥郁たる芳香に囲繞されし夢成就、夜宴においてはまた格別の趣きも備わろう、梅一輪、眼前に花開くまぼろし近く、魑魅魍魎に親しむとき深き夜空、すぐ頭上へと垂れ幕の如く語らい収める役目に準じては、無言なる意志の疎通、花鳥風月の雅と変幻したまおう。

われ目醒めを欲せず。とき亀裂を生じ美しき異形を生み出さん。

左衛門殿その影、灯火とともにすっと闇に融合せんと見紛うも頑是無きかな、かの一帯こそ妄想逞しゅう浮力に任せるは及ばず、平時より知りたまう名だたる梅林、夢幻の境地と、過剰な心象が作り出したる儀、ほどなく心得えし三里の足付きに我が目眩、あたかも神仏の慈愛と混淆せん。

はて妖魔に魅入られたる役職のほど真意は如何に。我、忘失の彼方より漂浪せり白痴ぞ、想い事ごとつむじ風にも似たる。ならば巻き上がれし枯れ一葉の、塵芥の類いと軽視するは片手落ちぞや、風に吹かれたる念、瘴気をも駆逐せむ意志を秘めたりこそ。

道行きの指標暗に示さんとはまさしく影法師なれば、かの御仁こそ夢路の先達、狐の仮面、まことに相応しけれ、もはや疑義挟まるところなし。魚心あれば水心、ついぞ寡黙を守り続けるもいよいよ左衛門殿もの申さると、玄妙なるかな、一言一句の度にぞ魂宿れる。

即ち一声発する間にさきの梅林、いつしかほんのりした明るみ生じ、月光の照りよくよく覚え、あるいは祭礼想わす壮麗な行灯の温もり近く、あるいはぼおっと霞んだ彩色なんとも愁いを含んだ調子、人影こそ遊べし習い求むるも甲斐なくはもとより承知、妖異の群れが踊りいでたり野火の果て、枯れ木も山の賑わいなどと、こころ静かに眺めたる。

ときの狂いは我が眼の保養、絵にも描けよう宴とは程遠かれど、冴えた月影のもと、柔らかなるひかりに舞う芳しい異形の衆、妖しけり美しけり、実相の祭礼を跨いだ影絵とや感服いたし候。

どこぞから獣の鳴き声なども聞こえゆ。本来の梅林を知らず、ただ摩訶不思議な光景を堪能せり。夜空に吹き立つは我のこころのみにあらず。斯様なまぼろしななれば深更に流るるはいにしえよりの定石、されど本文の意向、妙なる夜宴をや縷々と語るにしかず、当家子孫への忠言こそがその深意なる故に、しかと読み解かれたし。

 

武芸指南役に伴われし山中での見聞、沙汰通り後日上役殿に報告致しところ、思いもよらぬ命を下されたり。

あの一夜、すべてそこもとの腹に収めたし他言は厳禁、手記なぞに残すこともなきよう、委細は省略よき夢想であったと念じておれとの申し付け、我ひたすら顔中より血の気引くのみ、御庭番たる心得重々に理解されしも、児戯に等しい茶番、はたまた上役殿から仕掛けらたる慰みなどと不審は募り、身分を投げ打ち畏れながらと両手のひら床に強くすれば、藩中きっての器と名高い上役殿、いつぞやの薄き笑い我に向けられ、奇怪なる役目、あたかも神事たる由縁を孕んだ如くに明徴な口吻にて、そこもとの末裔に通ずること故、仔細覚ゆるは難ありき、この世には人智をとうに越えうるもの多し、呪術妖術の類いとでも、また深遠なる究理とでも慮ればよし、あとは目映い場所を見遣るふうなまなざし残して、一切は不問に付されたり。

平静を失するべからずと事後役職に専念せしも、底心に蔓延ったあの夜宴忘却し難し。

先々の系譜に対する戦慄とは明解に袂を分つ、されば我の懊悩、天上よりの供物に他ならず、よって大義を捨て自戒を破らん。万事はこの血筋に帰結せし、御庭番なる要職もまた月明かりのみ知己とする本分、風雅なり、これ自嘲にあらず。

密かなる心待ち言わずもがな紅梅の時節、上役殿においては再度かの山中へ赴く下命うけたまわりしことなかるかの所懐。翌年同じく、また翌年には煩悶を伴い今日に至れたれりは哀しかな、末尾にぞ一句添えたし。

 

わすれじの 月影おぼろ 梅薫る あまねく木霊 つゆときえたり

広告を非表示にする