美の特攻隊

てのひら小説

月葬

寝静まった妻の微かな気息に耳を向けるまでもなく、昇は苦虫をつぶしたような微笑を浮かべている自分を思い、消え入りそうな予感に深く沈みこむのではなく、反対に暗幕でさえぎってしまった。

暗幕の内側に息づくものを映像が終了する案配で拭いとることは出来そうもない。

無言の会話、、、眠りついた妻に問いかけようとしているのだろうか。それとも、子犬が飼い主の傍らで奮起し、大はしゃぎするのに似たような、しかし大人であるから意味合いはいくらか違っているかも知れない、そんな安堵が胸のなかにゆったり広がっていくのを感じていた。

とすれば、問いかけというよりも、机を前にした沈着とも緊縛とも無縁でありそうな顔つきは遠い夜空を眺めていた、いつかの想い出に誘われ、ふとため息がもれたのが妙に愉快で、寝室続きの部屋の空気はやはり同じであるとうなずいてしまうのだろう。

潤んだのはまなこではない、森閑とした真夜中の家屋に伝わるか伝わらない耳鳴りに等しい潮騒の、そして遥かな海面が生み出す絶え間ない月光のきらびやかな艶にすべてはあった。

 

昇はひとり小舟を漕ぎ出し、月明かりを追い求めたが、陸地から離れるほどに夜空にかかった暗雲に妨げられ、漆黒の海原を彷徨いはじめると、夜の深淵を眺め続け、おののきながらもどこか優美な心持ちが寄り添った神秘な雰囲気に全霊を捧げた。

櫂を手放した昇はまるで夜釣りの要領で決して海底まで届きそうにない錨を投げ込む。そしてかつて酔眼で仰いだ天空に再び夜の支配人を見出そうと努め、対話を願ったのだ。

揺れる小舟は波間にとどまり、陶酔感を伴った風景画が描かれれば、鈍く垂れ込めた雲間は晦冥より解き放たれ、大いなる月輪のもと画はいよいよ色彩豊かに諧調をあたえられて、無欠の夢に落ちゆく。

苦笑はときの深刻さと切り離されたように、不敵でありながらそのくせ甘えん坊みたいな相反する気分を形成することがある。昇はその理由をなんとなく分かった気がしたけれど、それ以上深追いすることなく、夢の底に落ち入る愉楽の影に隠れた目のひかりを思い返していた。

姉の望美がいつか見せた憎悪と呼んでも差し支えのない、激しく突発的な怒りが目の奥に灯った幼児の記憶。

しかし、萎縮してしまい、あるいは咄嗟に泣き出したにもかかわらず、その感情に溺れるどころか、姉の同級生であった美代への不思議な憧憬が先んじてしまい、その後の顛末を聞き及んだ年少期の記憶がまざまざと胸元に這い上がってくるのだった。

あのとき、昇はあきらかに手にした玩具のライフル銃を美代に向けてしまったのだったが、生来の優しさからであろうか、笑みさえ浮かべかばってくれた様子が幼子ながらに感じられ、また姉の叱責は鋭い刃物のようであったけれど、その裏に秘められた肉親の情は決して自分を傷つけたりしないだろうという瞬時のひらめきを、無垢なる神経が受け取っただけであって、大人としての成育が培ったものではないと鑑みた。

昇の意想のゆらぎはすでに海辺より戻り、これは些細な褒美なのか、潮騒が耳元にまで達しているふうな聴覚を得たのである。

更には月のひかり、このまどろむには殺風景でありながら、狭苦しく、息苦しくさえ感じてしまうことのある部屋に満ちているのは紛れもない夜の希望だった。

「なに、ぶつぶつ言ってるの」

まだ十分に新婚と呼べる家庭にあふれているもの、、、欲を言い出せばきりがない、

「なんにも言ってないよ。もう寝るからさ」

「あ、そう」

ほとんど寝ぼけた口調であったが、昇には新妻がふと目覚めたことが奇跡であるように思え、あらためて己の居住まいに背筋をのばし、まぶたをそっと閉じてみた。

希望が信号機の点滅であるなら青から黄に、そして赤に変化してゆくのは間違いない。つまらない考えをと払拭しかけたのが仇になった。閉じた目のなかに再度とりかえしのつかない暗黒を住まわせてしまったのである。

姉と美代の顔が当時のままめぐってきた。望美はともかく美代の顔がこれほど鮮明に舞い戻ってくるのは珍しい。

海上からたどって来た波のざわめきが静まり、深更の真っ只中に、ちょうど時計の針がその時刻で止まってしまったふうな錯覚を得たころ、美代の容姿は曖昧になり、ただ赤い洋服を着ていただけとしか認識できなくなってしまった。信号機はこうして昇に睡眠を促したと思われるのだが、当の本人は暗渠への転落を痛感し、救いようのない意識に目覚めてしまった。

夜風に乗ってゴミが路上をのたうちまわっているのだろう、カラコロとさほど不快でもない音をたてながら、窓の外を遠ざかってゆく。厳粛であるべき夜はいにしえより神事に相応しいと伝えられ、方や魑魅魍魎が跋扈する魔の刻でもある。静謐のなかで喧噪が演じられるといった矛盾を人々にしらしめながら、連綿とこころの中を例えようもない闇で覆ってきた。

昇は崇高な考えを排する調子で、それまでのしめやかな気配を急にかき乱したくなり、しかも素面で息をしていることの生真面目さとぎこちなさ、今から飲みだすほどの大胆さもない、今日は週末ではないし、いくら春日だといってもすでに夜明けは近かったので、無性に神経がたかぶるのを抑えきれなかった。

転落が痛手ならこみ上げてこよう欲情はひりつくばかりの、そう毛穴のひとつひとつまで見事に通過してゆく勢いであり、逆巻く生命である。

軽く寝息のする方を振り返りながら、新婚である現実を骨折より強く痛感し、一気にもたげた下半身を浄化させようと立ち上がった。

毅然としているようで宙に浮いたふうな、酩酊した折の意思を置き忘れながら目的だけが根元に残っている枯れ木なのか、新緑の放埒さなのか、どちらとも判別つかないまま、見慣れたとはまだ言いがたい妻の寝顔をのぞけば、猛烈な淫欲に駆られている実態を今度は外部から見届けている錯誤にとらわれ、陵辱に値すると行為をためらってしまった。

「明日があるじゃないか」

妻にだって仕事はある、こんな時間に起こしてまで充血を、いや脳裡の悶えを解放するまでもない。

じっと寝姿を見つめているのさえ、気恥ずかしく感じられた。

その仕草挙動はさながら小用を足しにいきながらも、しずくさえ出ないと聞かされた老人のそれを想起させ、増々やるせない気持ちが膨張したので、己で慰めるしかなく、そうと決まれば、眠れる妻を脇に意識を闇に投じた。

これ以上の情愛はひとのこころに備わってはいない、なんという施しなのだろう。

情欲に突き上げられて早くも絶頂を迎えかければ、いつの間にやら白夜を彷徨しているような心境に達し、その実、より軋む血肉を絡ませながら、相変わらず苦笑を張りつけている面をまざまざと知り得るだった。

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