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美の特攻隊

てのひら小説

花粉とライスカレー

うちのおかあさんに聞いたんだけど、小学校のときの給食がね、カレーだったんだって。ごはんじゃなくてコッペパンにつけて食べたそうよ。ええっ、うまそう、あっ、そうか、カレースープなんだ。ちがうってば、とろみのあるふつうの、じゃなかった、ああもう、ちゃんと聞いてよ。ちゃんと話せって、そうね。

とにかく、ごはんはないわけ、お皿にカレーがぺしゃ~と、でね、いもとたまねぎ、にんじんがころころって、それでお肉の代わりにちくわが入っていたらしいの。

びんぼうくさい、う~ん、そうかもね。ところがその味が妙によくて、そう、これはわたしの推測なんだけど、つまりおやつ感覚っていうか、お菓子みたいな雰囲気があったんじゃないかなって思うわけ。

だって、おうちではちゃんと牛肉入りなのに、ある日「ちくわを入れて」って駄々をこねたそうよ。

そしたらおとうさんに怒られたんだって。おかあさんは苦笑いで、おばあちゃんは目をしょぼしょぼさせていたらしいわ。

で、とにかく、いつまで給食がちくわ入りカレーだったのか、おかあさんもよく覚えてないらしいんだけど、おうちでカレーが作られると、自分の皿にだけちくわをちぎって食べてたらしいの、執念かしら。

ええっ、ただの物好きだって、でもね、それほどちくわが好きってことないみたい、わたしの知ってる限り、おでんとかうどんにもごく普通って感じで特別いっぱいってことないし、チーズちくわを隠れて食べたりしてないわよ。

いや、そんないつも見張ってるわけじゃないけども、あら、どうしたの目がかゆいの、鼻水もとまらない、花粉症じゃない、それじゃあね、バイバイ。

 

 

その日の夕飯はカレーライスだった。ちゃんとごはんの上にかけるから、ライスカレーでもあり給食ではなかった。従姉妹のたつ子さんの話しがふと念頭をよぎった。

あれからどのくらいカレーを食したのだろう。過ぎ去りし日々、失われた記憶、交差する意識と偏在する欲望、見せかけと充足、意味するものとされるもの、初代ボンカレー復刻版辛口のパッケージをしみじみと眺める。

着物すがたの松山容子さん、有無を言わさぬ表現は素朴すぎて親和をはねつけられない。

日本にカレーを定着させた功績は多大である。元祖海軍食である歴史を脇に置いても、このインパクトは申し分なく人口に膾炙し、老若男女を問わず、あたかもマヨネーズやマーガリンのごとく手軽に購入されてきたのであった。

が、復刻版に寄せる親密な情はここまでであり、追想が現実と触れた瞬間には一気に興ざめを覚えるしかなかった。

他でもない、肝心の味が懐古の領域において伽藍の崩落を余儀なくされたからである。

まるで水で薄められたかような頼りなさから来る、底深い失望、そして郷愁に別れを告げなくてはいけない明白なる実際は、二重の意味において物足りなさという感覚に忠実であり、舌先は決して嘘を述べないのだ。

塩分やアミノ酸、スパイスの多様性、確かに時代は進化したのであろう。なかにはこの淡白さにえも言われぬ味覚を発掘し、驚喜する者もいるかも知れない。

しかし、追憶だけに味わいをゆだねることが出来なかった。そこでひと泣きしてから洟をかみ、おもむろに戸棚からS&Bカレー粉を取り出し、ささっと振りかけるという荒技を駆使するのであった。

てのひらに可愛らしくおさまる深紅の缶よ、わが旧懐の念を羽ばたかせ、過去と現在の宥和に導くのだ。

祝詞のごとくすべりだす情念とはうらはらに、この缶のふたは中々しっかり閉まっており、指先でたやすく開けられないのが難点ではあるが、そこは気合いとばかり力むのだけれども、さながら貞操のかたい小柄な女性の気位に似てままならない。

さて、気骨としつこさは区分されるべきであろう。小用に立つ言いわけをあえて口にだすようにして、スプーンを片手に、そして我意のしおれをまぎらわすかの態で、冷蔵庫よりちくわをつかみとり、細かくちぎってはカレーの上に添えるのであった。

邪心なき幼児の色紙あそびをまねて。花咲く乙女を演じながら。

 

たつ子さん、帰ってきたよ、家で洟をかんでから。でもその場所にあなたは居なかった。知っていたとも、バイバイっていってたじゃないか。

スプーンなら曲げてやる。散らばったのはカレー粉ではなく、どうやら意識のほうであった。

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