美の特攻隊

てのひら小説

夢の売人

ああ、いつかの男だった、まえにあれは夜間飛行だときみに話したことがあったね。

実直そうな面構えに隠された卑猥な笑みは、通りすがりの刹那に生まれる魂胆に近く、しっかり届けられなくて、あとからじんわりぼんやり思い出せる程度だった、だからこそあの男に違いないと確信を得たわけなんだ。

卑猥であったのは実ははじめに接したときでじゃなく、のちに本性があらわになってのことだろう。

まんまと一杯くわされけど、耳たぶが腫れたくらいで済んだのだから恨みめいた気分はない。本音を言えば季節の風物詩みたいに毎年訪れてくれればなんてうっすら慕ってたところもあって、あれは春を迎えて暖かな夜にほがらな眠りが即すという絶好のときだったから、今度の来訪がいくぶんか早まった季節のようにも感じてね、あの夜にしても蚊が飛びまわるにはまだまだ熱気を帯びていなかったし、結局時候のずれにこだわる必要もないってことさ。

男の顔かい、そうだね、ぼくの記憶が正しくとも正しくなくとも、やはり見知っていたのだと答えておこう。肝心なのは巡り合わせのようであったことかも知れないけど、戻ってきたのは意識ではなくて、夢のほうだからだよ。

前ぶりをしておいたのは、男の登場と説明がやけに理屈ぽく、それは昼ひなかの明るみのなかだったせいもあり、どうにも枕元に立たれている気がしなくて、こっちも言ったらなんだけど、けっこうまともに対応してしまったわけで、そうだよ、昼寝なんだろうがまだ寝入ってはいないなか、うつらうつらって感じだったから。

 

「さて今回の商品でございますが、まったく画期的な発明品と呼んでも誇張ではありません。簡単に説明させていただきますと、もう窓の外に羽ばたいてなんて野蛮な行為は切り捨てられました。はい、崖っぷちに飛び込むスリルは映画にはつきものでしょうけど、私どもが開発いたしました新商品には配合されておりません」

男のセールスマンぶりに感心したと正直に告白したいところだが、眠りの入り口で足を引っ張られているふうな不快さがあって、画期的という言葉を残しあとは耳障りに聞こえたんだな、意識の底辺では夜が秘めている蒙昧とした浮遊感とは別の場面にいる心持ちがし、なんか叩き起こされる感覚さえ生じたので、実際よくあるように乱暴な口調でやり返してしまったんだ。寝起きの悪さを想像してほしいね。

「あんた魔術師なんだろ、まったくひどい目にあった。おまけに吸血鬼じゃないか、いや蚊だ」

ここで男は咲きこぼれる笑顔とともに極めてまともな意見を口にするものだから、こっちは昼寝をあきらめざるを得なくなってしまい、それでと、あくびするのんびりした装いで、

「飛行をやめるのならどうした効果が出るっていうんだい」そう突っ込んでみた。

「さきほどから申し上げておりますように操作とか作用ではないわけですね。効果とおっしゃられるのでしたら、まさにそこに答えが眠っているのでして、あなた様はおぼつかない世界に足を踏み入れるのでも、未知なる時間にもみくちゃにされるのでもなく、鮮烈なる現実に立ち会われるわけでございます。ただし幾らかの成分が加味されていますけれど」

もったいぶった言い方に聞こえるだろうけど、その花のある目つきやら、右手で空気を柔らかに切る仕草やらが妙に真摯に感じられ、ついつい引き込まれてしまったんだ。

男の解説はこうだよ。夢見の催眠なんて二度手間はいらない、まして通過儀礼みたいな大げさな導入部も設けられておらず、眠りびとは夢であることを認識しつつ、もっとも望ましいと判断される世界像をいとも簡単に描くことが可能であり、また世界のほうでもこれより求めるものなど存在しない情景となり、眠りの意識は至上の調べに流れゆき、抱かれるものは自分であって自分でない、そこは無意識が彫琢される場所である。時間の解放に優雅な心意気で立ち会えるということらしい。

しかも容易く満たされてしまう懸念はなくて、常に刷新される穏やかでなおかつ魅惑による興奮がともなっており、飽きることもない。

幾らかの成分というのは、日々にありがちな飽食にうんざりする回避機能であって、つまり有効成分を発揮するための特効薬がなんらかの副作用を合わせ持つのと同じく、眠気を誘う要素が施されている。夢見のなかで眠気というのはどうしたものだと反論したくなったのだが、男の言葉はあたかも眠りの精から託されたごとく、ぼくの為に入り用なものを最小最大もらさず的確に指し示してくれたのでうなずくより仕方なかった。

「あまりにありありとした光景は現実過ぎませんか。あなた様にとって心地よさとは、まどろみつつ風景にとけ込んでしまっているということではないでしょうか。でしたら、この成分は天使の涙と言えます」

カプセル一錠で効くそうだ。夜を待ちわびる想いはかき消され、皮肉にも花冷えの頃合い、窓を開けっ放しにしたままでは肌寒く、そのくせどこか遠くまで足を運びたい気分がこぼれだす。

すでに高揚していたぼくは、酩酊をおそれながら酒場に向かう心境で、あたまによぎった懸念をすぐさま口にした。

「それでまた料金は寿命から差し引かれるんだね。たしか三十分と言ってたな」

すると夜露にぬれた花びらが風に震える優しげだけれど、厳しさのある口ぶりで男は答える。

「いえ、私どもはひとに幸せを捧げたいのです。幸せの代償はご本人が決められるべきでしょう。現金でも承ります。もちろん寿命でもけっこうでございます。選択肢を提供するのもされるのも幸福なすがたではないですか。しかも初回は無料にてご奉仕させていただき、是非とも効果のほどを確かめてもらいたいのです」

ふと我にかえりテレビをつけたままだったんだろうか、なんて考えてみたけど、だっていつもどこかで聞いているようなうたい文句だよ、これは。

とはいっても男の申し出を断る気は起らなかったし、不思議なことに以前の夜空を飛翔した記憶が官能的によみがえり、論理なのか幻覚なのか区別のつかない脳に反作用して、思いのほか鎮静効果が働いているなか鮮やかな色彩を見取ってしまった。了解の意向を表情にだすと、静かに念を押すふうにこう言った。

「理想郷でありながら理想郷ではないのです。あなた様が欲するものはそのつど変化するでしょう。そしてつかみとった時点で夢から覚めてしまう不具合さえあります。一年まえの欲望はすでに風化しており、十年さきに希望を託すとき、残念ながら欲望はその衝動を維持できぬと、なしくずしになってしまいます。夢の一秒もまた劇的な要素で構成されており、ご自身の視線はデザイン画を眺める具合で意匠を愛でるでしょうし、時間の隙間さえ味わい尽くして、不備を見受けたなら即座に格納が実行されます。ありとあらゆる事象はあなた様の衣服より身軽で、機能的で、洗練をまとっております。どうぞ不実の世界に遊ばれんことを願って」

「不実、、、」

最後の意味深な響きが遠のくのを余興にひたっていると想いなしたとき、ぼくは真っ暗なトンネルのなかを歩いていた。靴音の寂しい反響が気になったけれど、出口はもう近くにあって幸福感とやらが迫っているのをひりひり受け入れた。

ぼくはなにを願っているのだろうか。

まばゆい光線が一気に瞳に差し込んできた。白銀の世界、そうだ、ここは冬の国なんだ。女人の影がひとつ、そばに寄るまでもなく、それがマネキン人形であるのがわかり、これはこれで懐かしい気持ちがこみ上げてきたけど、雪に紛れる潔癖な趣向で視界から消えさってしまった。

ははあ、これが格納というのだな、寒さを感じないのも変だと思わず、どんどん進んでゆけば、胸に去来するものが外界に浮き出るのを期待している自分と出会ってしまったので、すぐに格納と叫んでみたけれど、ぼくのすがただけは変わらず、期待は吹雪で遠のいてしまった。

こんなに激しく吹雪かなくてもいいのに、、、いつしか悲哀に彩られた模様こそ雪景色にふさわしく感じられ、見るからに凍てつきそうな小川の流れのほとり、ほんのり薄紅がかすんだような桜の枝を見つけ、爛漫と呼んでいいものやら、そのひとひらが雪とふれあうのをじっと眺めているうちに、絶景にめぐりあえた、そう言いながら意識はすっと埋もれていった。

 

随分と短かったな、初回サービスだからこんなものか、ふて寝の案配で寝返ると枕は暖かく濡れていた。