美の特攻隊

てのひら小説

恋の十字架〜7

取り澄ました内心が微かに動揺する葉子の一瞥に、ほくそ笑む清也の微妙な期待が重なりあった。

 「へえ、どんな曲かしら、清也くん、まえに音楽あまり聴かないほうだって言ってなかった」 

「懐かしのアニメソングやテレビドラマの主題歌なんかは好きだけど、最近なにが流行っているのか全然興味ない」 

清也は最後の否定の箇所をことさら強調する語感でもってそう答え、手にしたカセットを機材に差し入れる。車の速度は彼の指令通りに減速された。

テープのリードの部分が巻き始める数秒の間、清也は葉子に向かってこれから鳴りだす音像のいわれと、その入手に至る経緯を心のなかで瞬時に凝縮し語って聞かせる充足感をその無音のうちに得た。それは後に葉子が抱く疑問符というより、自身の体感する流れにおいて開陳される説明へのリハーサルにも思えた。 

版画らしき装丁の紙ケースによく目を凝らせば、歌舞伎役者が配された右横に長唄名曲選と記されている。緩やかなスピードに反比例するかの如く、葉子の手先は思いもよらぬ早さでそれを左手で取り上げるようにつかみとり、意表をつかれた時にあらわす、あのいぶかし気な口元と不敵な目つきを同時に顔面につくりだした。 

「何よこれ、、、」

内心の声が現実の肉声となる時、すでに長唄名曲選とやらの音響は車内にこぼれだしていた。 

冒頭どこか聞き覚えのある、能楽特有の鼓笛がおもむろに流れたかと思いきや、続き早に一聴して三味線の音色とわかる演奏がリズミカルに独自の間を配しながら淡々と進行してゆき、抑揚が極まったあたりで次第につま弾く三味線の奏法と、横笛らしき二重奏が散り落ちるはなびらにも似た情調を醸し出し始めた。 

「この曲もわるくはないけど、もっといいのは勧進帳だというんだ」 

葉子は紙ケースの裏面の書かれた曲目を見つめた。越後獅子というのが最初の曲で第二面の初めに勧進帳と印字されている。 

「巻き戻しておけばよかった、早送りするよ。どうしてもこれがいいと薦められたんだ」 

そう独り言に近いもの言をこぼし、いまから自分が演奏者になったとでもいう勢いで、さながら十八番を奏でる喜悦のような苦笑いを口辺に浮かべ、耳元は開演を心待ちにする聴衆の高揚に圧され、すでに来るべき新境地へと先走っている。 

ふたたび音像は立ち上がった。

今度は拍子木とかけ声に導かれ霊妙な笛の音にそって、木魚に似た鼓動からかけ声も溌剌と細やかなバチさばきが鮮やかに展開され、先ほどの越後獅子よりも確かなダイナミズムを持ち性急に疾走感をさらけだす。 

清也はに横目ではなく首先、いや半身を窓枠に乗り出す態でビルとビルが、ゆっくりと交差して行く様を食い入るように、しかし底の方では程よく冷めた茶をすする時の安楽さを横たえながら、その巨大な建築物が生き物みたいに浮遊し、お互いの身を名残惜しみながら交換しているかの光景に見えはじめると、隣で怪訝な表情を保ったままの葉子の存在さえ一時、忘却してしまうのだった。 

朝陽の照りには幾分が時間があると思われるが、空はすでに明るみだし、林立する途方もない縦長の物体には空間とコントラストが見目にも明確に示されている。

手のひらを重ね合わすように、今度はその左右の遠近が惑わされるくらい入れ替わるように、不明瞭でいながら的確に、危う気ながら気概を備えつつ、あくまで滑らかに映り過ぎてゆく。

ビルとビルの谷間は文字通りの清澄な広がりの彼方へと、あたかも安息の空域であることを証明していた。 

勢い車の窓ガラスを開放し、目の前に展開する絶景に身を乗り出そうとして、ふと清也は我にかえった。

「いけない、音が拡散してしまう」

この密閉された空間より眺めるからこそ、今、双方のまなこに映しだされるものが幻灯機のようにどこかしら、はかなく美しいのだ。そして鳴り響く長唄の、過ぎ去りし江戸時代を薫らせる歴史的なイメージも又、しっかりとこの車中に閉じ込めておかなければならない。

何故なら今、現在のこの場面は紛れもない玉手箱の中身そのものだからである。

それにしても何と見事なまでの調和なのだろう、三味線や太鼓の音色が鉄とコンクリートで積み上げられた建造物に何の抵抗もなく受け入れられ、あまつさえ、この時点すべてが、ひょっとしたらまだ見ぬ未来像にまでこだましているとすれば、、、 

そこで一息ついたとでも言いた気な目つきで葉子の顔をうかがった。

別段その面に大きな変化は見せていない。より正確にいうなら無表情と形容したほうがいいだろう。そんな雰囲気を、どことなくまわりを寄せ付けない気高さを、清也はとても愛おしく思うのだった。