美の特攻隊

てのひら小説

恋の十字架〜9

夕暮れの深まりが季節のなかでも減速してゆくある日、営業部と掲げられた社内の入り口付近で、かすかな肌寒さに微妙な安息を覚えながら、外まわりから戻ったばかりの小滝清也は、うしろから自分を名を呼ばれた。

ひかえめな声量だったので一瞬以外に思えたけれど、声の持ち主が葉子だという確信は薄まったりしなかった。

暮れなずむ夕空へおもむろに暗幕をおろしかけた街並の景色はやるせなさを孕んでいたが、精一杯足を棒にした割には仕事の成果が上がらなかった疲労も、いっぺんに疾風で吹き飛ばされてしまったよう感じ、振り向くと同時に、気分はもう高揚しているのだった。

恋する自分は紛れもなく恋をしているのだと、先日の夜更け葉子の豊かな胸の谷間に頬を埋めた感触が、ぬくもりとしてよみがえり、心の中にふたたび情熱が大きく振幅を示しだした。空虚は去った時間であって、若き自分は観念をもてあそんだに過ぎないのだ。

かねてよりの卑下と過敏なためらいは、曇りガラスを拭うような簡単な手つきに等しく、徒労に昇格した。

ため息はあらたな不透明の視界を生み出したけれど、言わずもがな微笑をともなっている。安堵はこうして恋の実りに結ばれるのだという信頼を得た。

無防備な体勢に危険を察するよりも、肩の荷が下りた気楽さを優先させたい一心が稼働した、そう意識するまでもなく。

 

それから季節はめぐり、葉子と逢いからだを交えるうちに、分割を余儀なくさせようとして、判然とした現象のみ切り取ろうと躍起になっていた潔癖加減が児戯に思えてきた。

内裏へかたくなに潜む魔の観念から制圧されて、生来自分はものごとに対し書割りを作ってしまうのが性分だと開き直ってみたら、以外にも女性関係だけに限らず、交友に於いてもひいては人生観に到るまで区画整理のごとく何事も明瞭に両目に映りこむよう、神経をすり減らそうとしている几帳面なたちである長所が了承され、芝居道具を駆使してまで、張りぼてで粉飾された戸板や敷居を創作してまで、まとまりをつけたかったのかと我ながら意地らしく感じてくるのだった。

むろん自己と他者との隔たりを埋め尽くすというより、隔絶したままの状態で最良の区域識別を計りたいのは仕事以外で望むところであるが。

さらに葉子との関係では、包み隠しようないあの暗然たる事実が、不吉で汚わらしい阻害物としてとぐろを巻いているので、どうあってもたとえ臭いものにふたをする姑息なすべを講じてでも、しっかりと目隠しさせる必要があった。

それ故に葉子に向かっては社長との経緯を問いただす権限を持たない代わり、彼女の口から成り行きや報せを欲しないことがお互いの暗黙となった。

代償として清也は葉子の肌に触れるたびにすべてを忘却の彼方へと放逐し、双方の肉体の摩擦によって発火する快楽を至高のものと崇め、次第に汗ばんでくる腋下をすかさず見定めては、こそばゆげに身をよじらせるのを強引に、その陰の間に沸々とあふれ出してくる体液を舌先ですすりあげ嘗めまわすのだった。

より深い秘所にわき出る淫欲のしたたりを味わう前菜として、当然の如く清也は葉子を飲み尽くそうとした。

そうした行為は如何にも葉子の背後に見え隠れする社長の影を払拭するのに欠かせない強欲の仕業ともいえる。女体より一番最初に分泌されるもの、それを賞味できるものこそ、登攀者の誇りであり悦びであったから。

葉子の肉体すべてが独占不可能であり、その摂理を甘受している今このとき、これが清也にとって強奪に他ならいことを女はよく理解していた。それが男の出来うる至上の愛情表現だということも。

 

「やあ、お疲れさん、少し片付けをすましたらもう終わりなんだ、君は残業ないのかい、どうしたの、そんなにじっと見つめたりしてさあ」

「さっきから、あなたのこと待っていたのよ、実はお話があるの」

会社内では清也に対してわざとらしく明るく振る舞う普段の様子と異なる、こわばったふうな葉子の口調と表情が気になった。おのずと清也の顔も固くなる。

「じゃあ、飯でも食べに行こう。食べながらでもいいし、食べ終わってからでもかまわない。おそらく話の濃度の問題だよね、君が決めれば」

営業部と秘書室との役職の違いもあって、同じ建物の社内とはいえ毎日、お互いが顔を合わせているわけではなかった。

また毎夜してふたりが抱き合うことも不可能だった。今日の顔合せは三日ぶりのこと。

たしかに毎日毎夜、葉子と過ごせたら、それに勝る喜びはあり得なかったであろう、が、清也は決して不服な気持ちを抱いたりはしなかった。

むしろこの恋の行方はどんな場所へ運ばれていくのだろう、如何なる仕掛けがこの先にすえられており、思いもよらぬどんでん返しが、はたまた非常に現実味を帯びた結末が用意されているのか、ともあれ窺い知れぬ謎ときゲームとして存続すれば、それでいいと念じた。

ふすまの陰りからそっと顔を覗かせたような、いつもの溌剌さが軽減した葉子に、何か不穏な足音が近づいている予感は以前より増している。

今現在の光輝、清也はそれだけを心の底から切望した。