美の特攻隊

てのひら小説

恋の十字架〜10

「人気のないところがいいわ。二人っきりで話したいの、清也くんのアパートがいい。食事は、、、ごめんね、何か手料理って思うんだけど、そんな馬力ないんだ。それにわたし料理へただし、お弁当でも買って行こうよ」

わずかに苦笑している葉子の目が今にも湿りだそうとしているのを、清也は見つめごく当たり前にうなずいた。

「そうしょう、じゃすぐに済むから少し待ってくれる」

そう言い残すと素早く自分のデスクに駆けつけた、一切の感情の起伏を平定させる勢いで。

本来ならば動揺に波打つ鼓動は以外にも平静を保ち、残務処理の手際も同様に落ち着いたものだった。

清也はこれから知らされるおそらく芳しくない話しをまえにして、邪心を宿した怪鳥が、実はもう何年も前から遠い天空の彼方より翼をひろげ、この夕暮れを目指しは華やかに飛翔を続けているよう思えてきた。

しかし、それもどこか空想じみた絵巻物だと、よくアニメ主題曲を鼻歌で吹かしていた子供の頃を思い出して、今度は反対に辛気くさい場面なのに奇怪なイメージが降ってくるものだ、はやる気持ちを押さえる時いつか似たようなことがあったはずだったと、混線した胸騒ぎを自覚したのだが、普段通り残務はてきぱきと片付けられている事態に変わりはなかったので、手先は別人の錯覚を起こしてしまいそうになった。

そんな葛藤とも矛盾ともいえる、あたかも超常現象のなかに放りだされているような不安感と現実離れした浮遊感が混合された、時間だけが正確に刻まれている連鎖は気がつけば、すでに帰り仕度の整っている現在へ横滑りしていた。

「早かったのね」

ひとことだけぽつりと、晴れ間が広がった大空の真下で先刻までの驟雨の忘れものみたいに、青葉からしたたるひとしづくを想起させる言葉がこぼれた。

夏日が遠い時間の向うに去っていったのがついこの間だったと、例年にならい訪れた郷愁はその場にたたずむ清也と葉子のうちに今年も舞い降りた。

足早に外に排出される速度で二人は会社を後にした。

オフィス街の近辺、複数のビルから帰宅する顔がいっせいに、ネオンライトや車道を往来するヘッドライトの照射を浴びて浮き上がるほど明暗が説得力を持ち得た頃合いには、すでに街並は夜の墨汁で背景が確実に塗りつぶされていた。

行き交う人の衣服の袖先に、胸元の隙間に冷ややかな空気が浸透してゆくと、誰もが似た感慨を抱くのだろうか、また思わず首筋を縮めてみせるのは、やはり均等に辺りに時間が流れて行く証拠だと認めてしまう。

うつむき加減の葉子のまなざしから見受けられる負の要因にどう対処するべきなのか、歩調をあわせながら内心にくすぶっているものが、どういった着火になって飛び火してくるというのだ。

足並みが揃えば揃うほどにその先の到着地への不安は、ここに来て一気に母体を持たないスクリューのように回転し始めた。

「もうコートが必要ね、夜は寒いわ。ごめんね、立ち話でもいいから言葉にしたいんだけど、どうかしているかしら、すれ違う人たちも全然知らないあかの他人なのに、何故かわたしに聞き耳をたてている気がして不快なの、きっと考え過ぎなのはわかっているのよ、でもわかっているなら、大人しく従った方がいいわね。誰に従うってわけでもないけど」

「あとで僕のアパートでゆっくり話してくれればいいさ、今日は冷えこむね、ついさっきから更に気温が下がったんじゃない。日中の秋空は清々しくて、湯たんぽみたいなぬくもりがあるけど、夜になると態度が変る」

「なによ、それ嫌み、ちゃんとここにあるものを伝えるからさ」

そう言って葉子は自分の胸を二回叩いた。

「ねえ、清也くん、わたしたちいつも外食ばかりだよね、いつもさあ、夕飯どうしてるの、わたし今まで気にしたことなかったけど、ほんと何食べているのかしら」

「気になる」

「とても気になるわ」

葉子はいつか見た映画の探検隊に参加する素人娘にそっくりの大仰な目のかがやきを表し、ご愛嬌とばかり少し微笑んでくれた。その刹那、清也は葉子の胸に納められているものの輪郭がほんの少しだが透けて見えたような気がした。

「近所に定食屋があって、そこでオムライスとか、焼きそばとか、そうだな湯豆腐なんかも注文するんだ。あと立ち食いうどんによく行くね」

「ほとんど外食なんだ」

些細で何の刺激にもならない小鳥のさえずりみたいな会話を、葉子はとても新鮮に感じているようだった。

しかし鮮明な現実は小鳥たちを驚かせてしまうだろう、そして飛び立ってゆくその残像に大きな傷跡がもたらされることになる情景は、悪意をむき出しにした刺激で無惨に粉砕してしまうに違いない。

清也のなかで不協和音をたてながら募って行くのはやはりそんな恐れであった。

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