美の特攻隊

てのひら小説

恋の十字架〜11

会社がある最寄りの地下鉄から二駅先まで運ばれ、続く乗り換え線で十五分くらい揺られ、降り立ったホームの改札から徒歩でわずかの距離に清也のアパートはあった。

これまで葉子と連れ合い電車に乗ったことのなかったのが以外である。この決まりきった路線、、、見知らぬ乗客らもそうであるように、ひとり押し黙りながら一日の終りをどれくらい送ってきただろうか。

時折思い出したといったふうに清也の腕をからめ寄り添ってくる加減がとても温かくに感じられる。

葉子は長身のうえ、ヒールの高い靴だったので、腕組みとともに小首をかしげるようにしなだれられると、頭と頭がぶつかりあいそうになり、そのため葉子は少し腰を屈める姿勢をとった。そんな小さな配慮が今は胸にこみ上げてくるくらい切ない感情となり、清也を幸福な気分にさせた。

退社してからここまでほとんど会話らしいものは交さなかったが、今ここにふたりして何処かへ、それは見知らぬ街や土地ではなく、自分のアパートに向かっているという同じ意味あいで、ある場所へと向かっているのだ。

それがどういった幕開けで始まりどう閉会するのか要点は絞りきれない、しかしふたりの道行きは確実に一歩一歩そこへと進んでいるのだった。改札を出る。

清也が言った通り、駅前の何件かの飲食店が目に入ったのか、いきつけの店で夕食をともにするのも悪くないと口にしかけたが、出来るだけ人気のないところに落ち着きたかったのだろう、胸の中にあふれ出してくる激情と涙を、早く受け取ってもらいたがっているのが痛いほどわかった。

清也はこう想った。すべてではなく、少しでいい、理解してもらえなくてもかまわない、自分の持ち物やらクローゼットまで、過去からここに蓄積されてきた情感、何もかも一切合切まとめて広げて見せたいのだ。しかし、ひとつひとつ克明に、散らばった宝石箱の中身を、血眼になって見つけて欲しいなどとは願っていない、これは揺れる不安定な場面にあって毅然たる信念であった。

 

商店が立ち並ぶ交差点脇を折れ、道幅が狭くなったその先にある弁当屋を清也は指さした。

たぶん食欲などほとんどない葉子は、彼の勧めるままにして買った総菜やお茶の包みに手をのばし「わたしが持ってあげる」そう微笑んだ。気だるい笑みだと感じてしまった清也は、罪を背負ったように萎縮したまま帰途についた。

住まいは三階立てのアパートと形容するよりコーポとかマンションと呼んでも差しつかえない、まだ築数年の建物に見える。そしてゆっくり見上げた葉子の目が無言で語りだすのを、幻聴として聞き取った。

 

「幾度となくここを訪れているはずなのに、どうしてこんなにしみじみと眺めてしまうのだろう、いつもわたしの運転で、送りの役目を果たす為に道のりも完璧に把握して近道まで発見するくらいだった。でも今夜は違う、、、会社から始めて電車を乗り継ぎここまでたどり着いた。彼ひとりの毎日の帰路、、、わたしはほとんど車の移動、、、同じ時を過ごし、お互い見つめ合い、相手のうちに何かもうひとつの幻影を作り出して、叶うのならそのままいつまでも夢見る心持ちでそこに居続けたい、、、傷つきやすく壊れやすいのはわたしの感性と一緒、どうしてかしら、生まれてくる以前からこんな気持ちがすでに存在していたと信じ込んでしまいそうになるのは、、、一体いつからこんな錯覚に囚われだしたというの、わたしから何が離れていこうとしているの」

 

清也は葉子の抱え込んだ悲哀と苦悩と別のものが、個人的な領域ではなく新たに産声を上げているのを聞いた。

それが、目の前の玄関からこうやって上がり下りした階段や殺風景な壁面を凝視する意味なのだと。

ちょうど訃報を耳にした時の苦渋にこわばるそれを虚構だと高をくくる、あの瞬間の小さな箱の中のもがきのような、奥行きがかろうじて確認出来る感覚であることを知った。じわじわ底辺から足下にかけて忍びよってくる影の実体は、もう追い払われない。

「この階段、わたし好きよ、だっていい足音が響くじゃない」

葉子は自分でも意識しなかったそんな台詞が、不意に口をついて出たことに驚いた顔をしてみせた。

清也は黙ったままうなずきもせず、いつもなら気の利いた返事をするところ、反対に唇の上下を内側にすぼめた。

葉子は無言の受け答えに納得した仕草で早足になって、清也を追い越し三階の廊下前まで一気に駆け上がり、踊り子が踵を返す時みたいに鮮やかな動作で、階下の清也の向かって陽気なポーズを決めると、やや声高にこう言い放った。

「やったわ、一番乗りよ」

その声は残響音になって辺りに散らばった。人気のない気配を承認しながら。