美の特攻隊

てのひら小説

恋の十字架〜18

「葉子は始めて僕のほとばしるものを体の中に受け入れてくれました。そしてそれが、最後のふれ合いになってしまったのです。

肉体同士が大きくうねりをあげて溶けあっていた瞬間、意識は明瞭でありながら妙に覚めた距離感を、、ええ、何か生々しく、歴然と目の前にあるものが、どこか自分に無関係であるような、もしくはつかみとれないような、、、いや、ひょっとするとつかみたくないのかも知れないなどといった相反する感覚は、激しくこみ上げてくる錯綜した感情にコーティングされてたのでしょうか、搾りかすがもうこれ以上出てこない場面にあきらめを覚える、あの気持ちが葉子の体から離れたとき緩やかに訪れたのでした。

夜霧の向うから近づいてくる幽霊船の不気味さと似たものを漂わせながら。

結局、僕の悲鳴にも近い切実な関心事に彼女は、言葉では伝えられないことを身を持って表してくれたように思います。

肉欲と情愛が同時に引き潮みたいに遠のいて行ったそれからの沈黙は、哀しみが恐怖に、恐怖が儚さの波間に揺らぐふうにとても静謐な叙情さえたたえていました。そう思えるのは僕らはあの幽霊船にもう乗り込んでいたからなのでしょう。この世のものじゃなかろうが、すでに二人を乗せて船は出航していたのです。

波頭をすべりゆく船出の静けさだけが余韻となっている感じがして、それなら有終の旋律が奏でられるようにと、願いを口にしたのは葉子でした。

『何か音楽かけてくれない。でも清也くんはあんまり音楽興味なかったんだよね。』

たとえ哀しみのさなかでも以外と冷静な選択が出来るものです、、、僕は一枚のCDを素早くプレイヤーに入れ、そして曲目を選びました。

ビートルズアビーロードの9曲目の終わりの箇所からでした。

「You Never Give Me Your Money」から「Sun King」へとつながる、そうです、こおろぎの鳴き声がかすかに聞こえだすあの瞬間です。

ギターとベースがやるせなさにつま弾かれ始まってゆくイントロへのブリッジ、、、、これは時折、思い出すとよくひとり聞き入ってました。

街の裏通りに小さな公園があって、夏が深まりだすと、よくこおろぎ達の合唱に耳を傾けては足取りを遅くして、草むした辺りをそっと覗きこんでみたものです。でも決して立ち止まったり、後戻りしてまでは彼らの鳴き声に集中しようとは思わなかったですね。

公園から遠ざかれば次第に街の騒音に掻き消えてしまうのが、自然だと感じたからです。でも、ときには群れから逃れだしたのか、しばらく過ぎた辺りでまた小さな音色を聞かしてくれることもありました。

夜明けの新宿ビルの長唄ですか、、、あれはいきつけの酒場の店主から聞かされたんです。異化作用とか言ってました。一度機会があったら試してみると面白いって、、、今思い出すとあの未明の風景は少年の頃、故郷で見た夕映えにオーバーラップしていたかも知れません。そうですね、とんぼが飛んでいてくれたら完璧だった。

さて僕のお話も終盤にさしかかってきたようですから、その後の成りゆきへ急ぎましょう。

ええ、最後は淡々としていたほうがいいものですよね、、、幽霊船が霧深い海洋へと包み込まれた以上、そのままの航海であって欲しいからです。太陽の下にさらけだされたら難破船だった、というのは興覚めですので。

 

『明日からしばらく会社休みむことにするわ』

そう言い残して葉子は、見送られるのが何だか寂しいからと言って一人帰って行きました。帰り際に、落ち着いたら必ず電話するからと約束の言葉をささやいて、、、秋の木漏れ日のように清潔な憂いを込めながら。

翌日には早くも葉子の欠勤事情がそれとなく社内に広まっている空気を嗅ぎ取りました。別れの言葉はさよならではなく、おやすみ又ね、でしたから僕はその気持ちをしっかりと抱いて彼女の意思を尊重しようと、こちらからはあえて連絡はしませんでした。 

彼女の父が亡くなったと聞いたのはちょうど一週間が過ぎた日のことです。

ええ、僕も葬儀場に赴きました。しかし大きな斎場だったので、焼香の際に心のなかでは大きく目を見開いて葉子の喪服姿を見つめようしたものの、僕の意思は葬儀という枠組で阻害されてしまったのか、厳粛でいながら雑踏に立たされるひんやりとした感触だけが、抹香の煙のなかに残され、そのすがたは朧でした。」