美の特攻隊

てのひら小説

恋の十字架〜19 (完結)

冬日の訪れを感じさせる冷え込みにすっかり覆われた夕暮れのひとときは、何もかも萎縮させてしまいそうなよそよしい気配を感じさせる。

が、近づけば遠ざかるのではなく、その逆の様相がぼんやりと漂いだし、見るもの聞くものは肌をかすめてゆく。寂しさが案外なぐさめになる場合だってあるのだろう。

やがて哀感が窓の外に美しく展開しだした頃、小滝清也は沈める夕陽に自然の理を見いだそうと努めながら、次第に心急くものが杞憂へ転じるよう願いをかけた。

日没を意志でもって食い止めようとする、夢幻のまばたき、夜空の星に祈願しなかったのは、すでに哀悼であることを知っていたからである。

夕映えに染まる上空へ、己の焼きつく胸のうちを投影させることにより、不確かを承知で大いなる幻像が映し出されようとしている。それを見上げることはひとつの循環作用となって清也の血をより濃厚に紅く染めていった。

 

「僕は待ち続けました。冬仕度の必要な日々は取り急いでいるようで、夜空から白いものが落ちてくる頃にはもうクリスマスが迫っていました。忘れもしません、聖夜のことです。やっと葉子から連絡が来ました。

彼女は無沙汰を詫び、たくさんお話したいことがあるけど、まだまだ混乱した頭の中がうまく整理できてない、、、電話の向うの困惑が吐息となりよく伝わってきます。

僕は一番言いたいことだけ話してくれればいいと応えました。

ああ、小滝清也よ、自分よ、僕自身よ、だまされてはいけない、もういんだ、、、どちらでも、ただ自らを偽ってはならない、、、驚かないで下さい、葉子はやはり妊娠している、しかもその子を授けたのは僕かも知れないと口にしたのです。

気がついたときには怒号による詰問が発せられていました。いいえ、彼女の曖昧な言い方に対し怒ったわけではありません。動揺し動顛し、熱いものが頭にのぼったのはたしかです、でもそれが沸点に達するまでもなく、特定の感情に支配されていないことが、霧が晴れるように見渡せたとき、まったく信じられないことですが、僕の脳内に歓喜の歌が高らかと鳴り響いていたのでした。

なんという素晴らしい魔術よ、青春という名の奇跡よ、人生の醍醐味よ。

もうそれで十分でした、それ以上葉子にことの仔細を問いつめれば、歓喜の歌が消えてしまう。

彼女の懐妊が社長の種によるものだろうが、僕によるものだろうが、一番肝心なのは葉子が僕に対してよくぞ、そんな夢語りを聞かせてくれたという事実にあるのです。

あとはその現実を了承すれば、世界はまるく収まるでしょう。

『それで生むつもりなの』

『もちろん』

こんな場面でも気楽な言葉が飛び出すものですね。

『おめでとう』

すると彼女はすかさず『ありがとう』と微笑みました。

 

以来、葉子に会った事はありません。もちろん連絡も、、、それから二年ほどして僕は退職しました。

別に会社に不満があったわけでもありません。社長の近辺にも別に変ったところはなく、社内で葉子の噂をする者もいないくらいでしたから。

一度だけ、こっそり忍び足で近寄る思いで、葉子の家の前まで行ったことがありました。すでに土地家屋は売却されたのかどうかはわかりませんが、無人の住処である様子ははっきりしていました。

 

これで僕のお話はお終いです。

後日談ですか。そうですね。転職してから前の会社の同僚と偶然出会い、葉子が幼子を公園で遊ばせてる姿を見かけたと知らされたことがあります。

他にですか、それっきりですよ、葉子は僕のなかで眠っているのです。そこは花園です、色とりどりの花が咲乱れてはいますが、よく眺めればそれは乱調に見えて実はとてもきらきらと輝いているのです。

ステンドガラスが粉々に割れても、やはりその色彩が不変であるように。

形なきものは永遠の眠りにつくのでしょう。

何ですって、女神のめざめ。

いいえ、女神様は理不尽な行いをしないものです。かりに天変地異があったとしても不屈であるべく、人は努力するものじゃないでしょうか。僕は今、気を取り直して夜空の星々に願いをかけています。

何を、決まっているでしょう、歓喜の歌が鳴り止まないようにです。

夜風に吹かれて歩く習癖は、永眠に対する追悼でも儀式でもない、ましてや執心に囚われ失ったものから逃れられないなんてことはありません。

ただただ、美しい眠りからめざめないよう、僕のこころが時折、花園のまわりを鬼火となって巡っているだけなのです。」