美の特攻隊

てのひら小説

夏まわり

絵の具を絞り出し塗りこめたみたいなひまわり畑の小径を進んでゆくと、木々の伸び具合が見分けられるほどの小高い山がせまって来た。

背景の青空は無性に旅情をかきたてるが、夏風にそよぐ大輪から浮き上がる緑は小山から彩度を分け与えてもらっているせいか、足取りは緩慢になった。

「すぐそこよ」

高くのぼった太陽のかがやきは、辺り一面を極彩色にしてなお、昂然と大地まで発光させている。くっきりとした影もまた青みを染み込ませては、せせらぎの清らかな音を静かに告げていた。少女が教えてくれた言葉の調べとともに。

緑と蒼穹が溶けて流れだしたような小川を眼前にする。

転がり疲れた岩の腰を据えた所々に暗緑が認められるのは、そこそこの淵を擁しているのだろう。こんなひっそりした川面にも秘密は隠されている。

靴下を脱ぐのが気恥ずかしいくらい、まわりに人気はなく、寂寞が守られていた。砂利と小石が邂逅を確かめあっているふうな長閑さと緊迫が交差している浅瀬に素足を踏み入れてみる。

日焼けを知らない青白い肌に冷涼な感触が襲いかかり、直ぐさまそれは霊妙な痛覚となった。透明な流れに時間はなかった。

「きっときゅうりが浮かんでいるわ」

「そんな馬鹿な」

胸のなかに取り憑いた想いは永遠にとどまるのだろうか。きゅうりに手を伸ばしかけた瞬間、全身がすっぽり淵に沈んでしまった。

 

 

早朝から熊蝉たちの歓びがいっせいに鼓膜へ浸透し、気温は急上昇していた。

枕がぐっしょりとまるで水をかぶったみたいに濡れていたが、不快さを覚えつつ懸命に夢のありかを振り返っていた。

ひまわり畑は背丈をゆうに越えていたなどと、早くも潤色がなされ、天空はすぼめられて薄暗く、小径は煉瓦色になめらかで、一匹の艶やかなコガネムシが転がっているのが、網膜の彼方に見つかった。

 

網戸から大儀そうに入りむ熱風が疎ましく感じ何気なく目をやると、黒い物体を発見した。

眠気と熱気が居場所を譲りあっているなか、意識は夢の花園を呼びよせ、薄暗い緑から使者を寄越したに違いない、そう思いなしては、昆虫図鑑を開いてみるような感覚で網戸の影を凝視する。

「カミキリムシ」

自分の声ではなく、またもや少女の発音が耳にこだました。

見れば白いものを全身に散りばらませながら、几帳面にも割りと長い触覚にまで点綴をゆき届かせている。じっと動かない。蝉の音を背に浴びながら、編み目から抜け出せそうもないまだらは落ち着きはらっていた。外側でなく、部屋の内側にへばりついているというのに。

聞き分けない子供と一緒で、手元は捕獲の使命を忠実に従うべく、また夢遊病者が見せる澄んだ仕草をも両立させながらベッドから起き上がりかけた。そのとき不意に独り言がついて出た。これは紛れもない自分の声である。

「きゅうりの二の舞だ」

浅瀬のからの眺めがとてつもないほど懐かしくて、胸が掻きむしられた。悲痛は出口を知らなかった。

 

午後のサイレンがかなり湿気を帯びた空気によって運ばれたので、さすがに目が覚めた。夢を見ていたのだ、起きたつもりだったのも現実でなく、朦朧とした絵画の陳列、あるいは会場を持たない映写会だったのか。ちっぽけな舞台と俳優は存在したけれど。

 

舞台は回転する。上下左右へと。

 

彩女は真っ赤な口紅をさしていた。うれしさを隠しきれないのは長いあいだ逢えなかったからだけでなく、やはりそのけばけばしい深紅の光沢がひかりを放っていたからだろう。

「いつか頼まれたから」

彩女のやや寂しげな目はそう答えているようだった。

きっと感情を抑え過ぎてしまい自分の面差しも又、喜悦が急速に冷えてゆく不本意な態度に協調したと思われる。

焦燥はただちにちからまかせの抱擁にとって変わられた。念願のくちびるを一気に奪わなかったのは、敬意という衣を借りたしまりのない呵責によるものでしかない。

髪を軽く撫でては仄かな匂いの所在を探り当てようと、集中すべきものは不確かな感触となり散漫な方向へと転じてゆく。もう片方の手は微かな震えに促されている背中をさすり、やがて硬直とは無縁の柔肌に出会う冥利を得る為あえて背骨にそった愛撫を試みる。そして吐息は言葉に成りかけることを拒んだまま、彩女の耳たぶ間際でよどみ、伏したまなざしが描くであろう羞恥と熱情を絡めとった。

下半身にまだ衝動を覚えないのは立ち尽くし、緊縛を受け入れている情況に陶酔していたい一心で、猶予を愛でていたからに他ならない。彩女の媚態がこぼれだす手前を賞味するために。

すべては手中に収めたという気持ちが優先されていたから、さきほどの焦りは礼儀の域で生じた戯れでしかない、そう念じながらゆっくりと赤いくちびるを吸った。

 

白い下着にトマトジュースをこぼしてみた。怪我人を演じる必要に駆られてのことであった。俳優は予行演習を怠ってはならない。

「きゅうりの話しは本当だった」

ついでに台本もそう書き換えてみよう。夏に怪談はつきものである。しかし少女と彩女を混ぜ合わせたり、蒼空から告げられた旅愁を曲解してはいけない。愛すべき確率にそうそう巡り会うことはないから。

夢の連鎖を解き放ちたいけれど、思い出せないという理由で虚飾に終始するのはわびしいものだ。

 

彩女にはこんな台詞を用意しておいた。

「いきなりキスするのはまだいいけど、出方しだいね、演技も恋愛も」