美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 9

翌朝には初々しい陽光がこのまちすべてに降りそそいだ。
もっとも純一は昨夜はなかなか寝つけないく、いつの間にか眠りおちたのかと思えば、うつらうつらと意識がさまよいだし、夢見なのかこちら側での感情のこわばりなのかよく分からないうちに夜明けを迎えた。
あれから、朱美は盆に乗せた麦茶のポットとサッポロポテトバーベQあじ一袋を置いて、別段会話もなく「おやすみ」と言って純一の視界から消えていった。
暴発した原液はいつになく大量放出されたようで、と云ってもこんな醜態は初めてのことであり(一般にいう夢精の経験もかつてなく)どれくらい噴射したのか比べようもないのだが、とにかく朱美をまえにしてよだれを垂らすような、いや、それの何倍も羞恥が塗りかさなった痴態は、純一を不和な領域へ連れこんだのである。
日中には当然朱美と顔を合わせたし、来客の段取りで用件を伝えられることも、何らいつもと変りないのだったが、しかし日々の微動だにしない有り様が却って純一の胸中を煩雑なものに生成した。
台風一過の青空のもと、忘れものを探しているのかようにときおり地を駆ける突風となって。
やがては追い風にあおられる宿命を信じたいが為に、姑息な避難場所に身をひそめてしまう惰弱を知るが故に。

純一が願ったのは夕立ではなかった。
これからの季節に長雨は降らない。あの夜のことがもう数週間も数ヶ月もまえの想い出となって胸をひりひりと焦げつかせた。
「たった三日した経ってないのに」
その夜、三好から明日は泊まり客が少なくなるから休みをとるように言われたこともあり、休日には恒例となっていた自転車めぐりを考えていたのだが、この三ヶ月のあいだ方々を走りまわったことだし、かねてから誘われていた夜のまちへ探訪してみるのも一興だと、早速その方面に意識を傾けた。
「もしもし、純一です、はい、三好荘の。ええ、お酒は飲めないわけでもないのですけど、僕まだ未成年ですから、いやあ、食べるだけでけっこうです。はい、それでは、あと一時間してから、駅前の公園のところですね。わかりました、それでは」

このまちに来てすぐ三好から、
「この人はむかしうちに食品を納めてくれてた森田商店の息子さん、もう随分まえにここの親父さんは廃業したんだけど、息子さんはいまは会社勤めしてるんだがね、釣りが趣味なもので、うちのお客さんと釣り場の情報交換をしてくれてるんだよ」
と言ってたまたま顔を出した青年を紹介された。
年の頃は二十代なかほど、眉目のつくりが明瞭の派手な風貌なのだが、その割にはどことなく落ちついた雰囲気が全身を嫌味なく透過しており、その茶色がった虹彩の澄み具合によるものか、ちょうど抑制された感情が自他ともに静けさをもたらすことを想起させた。
「どうも、満蔵さんから聞いてたけど、東京からだってね。よろしく」
と、柔らかなな手つきで名刺を差し出した。

所用でまちへ出ることがあるたび、森田のバイク姿を見かけ軽く会釈すれば「やあ」と云った笑顔を返してくれて、また三好のところにも訪れる際には色々話しかけられ、純一はきっと近いうちに懇意になるかも知れないと内心期待もし、それはいくら孤独癖を深めようにも実際は隔絶した情況にあるわけでなく、多様な関係にとらわれるまではないにしろ、ある程度は世間の風を受けてみるのも自分の軽やかさを育むような気がしたからであった。
三好から朱美の帰省話しの流れとして森田のことを聞かされており、
「彼はうちの娘と同い年でな、結婚も早かったんだが去年の秋に別れてしまって、子供が欲しいと言ってたけど出来ないままでなあ。家庭を大事にする気性のよい子だったんだけど、やっぱりむこうとの性格があわなかったんだろう、おんな遊びをするわけでもないし」
近々出戻ってくる自分の娘の心情をくんだ侘しさを、そこに重ねあわせるよう語るのが純一にとってみればどこかしら胸に染み、ちょうど雲間からかいま見える青空に却って哀愁を覚えるような、先行きの懸念が泡沫のごとく浮き立った。