美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 10

待ち合わせ場所の公園付近まで自転車を走らせた純一は、夕闇がひろがりだした敷地内を覆うよう茂る木立の影にひとり佇み、携帯を操っている森田の姿を一目で見てとった。
「あっ、森田さん早いですね」
と自分も時間より早めに来たつもりだったのに以外な先手であるかのような気後れがし、だが、おとなを待たしてしまったと云う妙な優越感も同時にわき起こり、自転車のうえから思わず大きな声を出してしまったのである。
そして小走りするよう人影との距離を縮めてゆくと森田は、
「いあや、さっき仕事関係のひとを駅に見送ったところだったんだ。夕涼みにちょうどいいかな、ここは花見で何回か来てるけど、こうやって生い茂った桜の葉の下にいると何か変な気分なるね。懐かしいような、、、あっ、さっき知り合いに連絡したら、ぜひ来たいってメールがあって、いや、せっかくだから純一くんの歓迎会をこめてって思ったもんだから。だいじょうぶだよ、女の子だから、花見に誘ってくれなかったとか愚痴られたからいい機会だ」
純一は想像もしていなかった進展に追いつく間もなかったが、
「えっ、それって森田さんの彼女とか」
適当に動揺をさとられまいして素早く反応してみると、森田は苦笑を浮かべながら、
「あっ、全然関係ないの、よく飲み屋で顔をあわせるひとが今度結婚するんだけど、その本人が夏風邪で寝込んじゃって、で相手はおめでたでさ、風邪うつすとよくないからって何日か会ってないらしく、彼は目一杯気遣いしてるつもりなんだけど、彼女は冷たい仕打ちとか言いだす始末でね。これってマリッジブルーの一種かもって、気晴らしも必要だってことでちょうど今日の昼時にそんな電話があって、それなら今晩にでも彼女とその友達を誘ってみるからと話してたところに君から連絡もらったわけなんだ」
「じゃあ、先約だったんじゃないですか」
「いやいや、むこうも純一くんのことをちらっと話したら、えらく興味あるみたいでね。それより迷惑だったかな、君の知らない子らを呼んだの」
すでに森田が語る詳細を半ばまで聞いていた純一は俄然、先刻までの夕映えが再びめぐって来たようにこころのなかが朱に染まっていくのを覚えた。
「迷惑だなんで、違います、、、でも何か、恥ずかしいんですけど」
すると、森田はそんな彼のこそばゆい表情を慰撫するかの低めの口調で、
「女の子っていっても気さくでね、あいにくその彼女ともうひとりしか都合つかなったんだけど、人数的にもいい組合わせだよ。おめでたさんだから酒を飲まないみたいだしね。帰りは車で送ってくれるって言ってるし」
と、まるで純一の照れを呑みこむふうに、そして己に言い含むよう応えるのだった。
すっかり相手のペースに乗ってしまい「自転車で、、、」と堅固な思考が働かないことをどこかで願った小さな回転は、期待通りの空回りとなって宵闇にかき消されていった。

それから小一時間も経たないうち、すでに公園内の暮れは忘却の彼方へと去りゆき、あたかもかんな掛けされた木材が新鮮な芳香を漂わすように杞憂は剥ぎとられ、そこに新たに見いだされたのは紛れもない自由な精神であった。
公園の近くにある居酒屋の暖簾をくぐってから誘われたふたりの女性が訪れるまでの間、一応遠慮はしてみたものの予期するべきであったよう森田から、
「純一くんは年齢よりいくつか上にみえるね。ビール一杯くらいはいいだろう、せっかくだから、飲めないなら無理にとは言わないけど」
辺りをはばかるようで、実のところその丁寧な口ぶりに恐縮した純一は、不意に念頭をよぎった父の顔に乾杯の意を捧げなければいけないと云った、素晴らしい強迫観念を払拭するためにも、そして父が酒豪であったことも今あらためて思い出され、名も知らない洋酒の瓶や夏場になればビールの後でと、すでにテーブルに用意されているワインクーラーの冷たげな銀色をなぞる清涼な汗のようなしずくを横目で眺めているすがたが甦り、もの欲しそうな顔色を酔眼で読んでみたに過ぎないと言い聞かせるふうにして勧められたであろう、その白ワインのかつて憶えたことのない飛び抜けて引き締まった冷たさに驚いて、一気にあおってしまったあと口のなかに父の秘密を味わったことが、こうして血をわけている証明になりかかるのであった。
純一はそんな父を一刻も早く忘れようと、森田のうしろになにものも見ることなくビールを飲み干した。

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