美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 14

麻希と格別に込みいった会話を進ませた記憶もない、数日たってその夜のことを思い返す度にまず狼煙のよう上がってくるのは、くだんの老成を先取した、完熟トマトみたいに鮮やかな内にも酸味を残すことを忘れない、夕陽を彷彿とさせる笑みであった。
隣席の香穂は森田に婚約者のことを懸命にあれこれ話している様子だったのだが、すでに酔いがふたりの会話を切実なものから、云うまでもなく曖昧なものに鳴り響かせてしまい、むろんそうなると彼らの話し内容は、窓の外でとぎれとぎれに跳ねているにわかの雨脚のようにも思われ、気にすることもしないことも可能な、あの適当な雑談のなかに消えてゆく宿命をほんのわずかだけ憂慮してみた。
また、それはまったく違う形で純一と麻希を、いわば彩るのであった。
「あの人ったら、夏風邪とか言っちゃって、そんなに二週間近く長引くものなの」
多少、鼻息が荒くなりかけた香穂が自分の未来の伴侶を叱責しかけると、森田はいかにも落ちついた口調で、
「あっそう、二週間ねえ、実際は先週の終わりからだっけ」
あたまのなかで指折り数えているふうな目つきをして、
「えーと、今日で八日目」
彼女以外、酔い加減は均等に自分にもまわって来ただろうと云う、実感のあった森田から見れば、香穂の素面さが、逆に酩酊の調子に見紛われて揺れ動き、奇妙な錯覚へと支配されてしまうようだった。
日数を上げてみたその声は、通りがよかったせいもあり、麻希と純一のふたりにとってみても、目線が交互に相手の顔の上を横切って、これこそ酔眼の証拠と呼べるかもしれない断続的な効果音と化し流れてゆく。
「純一くんって、東京では彼女いたの」
「ええ、まあ、軽い感じで」
「軽いって、それどういう意味」
最後の意味という語が半音下がり気味にのばされる。
そこに、香穂の具体的すぎる数字が差し挟まれ、答えには直結しないものも、想像の枠内からははみ出しはしないだろう艶めいた推察へと香って、まるで異国の言葉のように、その花びらのように、ひとひらこぼれおちる。
あるいは「何となく、わたしを避けているみたいな気もするんだけど、あのひとは今までもいっぱい彼女つくってきたから、避けるふりして試されたりもされてるんじゃないかって」
森田は、束の間の無言も間合いを見抜いてみたというふうに、
「考え過ぎだと思うよ」
そう言った語感は単なる説明からあきらかに超脱し、未だ見知らぬ情感へと勝手にたなびきながら、
「あのさあ、さっき少し聞いた、三好荘に戻ってきてる娘さんいるよね、わたしも知ってるよ。森田さんと同い年じゃない、子供のころよく遊んでたって」
そこから麻希はすこし声を低めにして、横目でちらりと森田の方を目配せしながら、
「ひょっとしたら前からあのひとのこと好きだったりして」
と、情熱が積まれたた倉庫内の反響みたいに、けれども日陰に安置させるべく、ひんやりとした声色はすぐ後に続く森田の冷静なことばを察した呼び子となり、こうしてふたりの間を繕うかの如く、一片のことの葉が舞い落ちた。

夏いきれから開放されたかの、青葉が夜陰の空気に抵抗受けることなくここまで届けられるのを、純一はまたもや奇跡のなかへと静かに沈めようとしたのだ。
何故ならば、ときおり停止される、麻希の柔らかに磨かれた瞳が、あまりに時間的配慮を欠いた刺激となって己の胸に突き刺さるのを、今はとりあえず避けなければと感じるからであった。
反面、もう少しの余裕が、つまりはこんな進行具合がまるで映画のように思われ、クライマックスを嫌がうえにも期待させるからであり、それにも増して決定づけられたのは、唐突に発せられた麻希のひとことにより強烈なときめきを知らされたから。
「ねえ、わたしみたいな女性はどう見えるのかしら」
朱美に対する禁句が、まるで短冊にでも書かれているような現実性をまえにした純一は、そのとき萎縮しながらも、微熱が呼び起こす不遠慮な風が、短冊の裏側を覗かせてくれる希望を抱いた。
パンティが脱がされる以前に、蠱惑のふとももがあらわにされ、その為には禁断のスカートが強風であおられる様を乞い願うように。