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美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 15

小さく、しかし大胆に耳の奥へと吸い込まれた麻希のひとことは、初顔あわせした今夜の時間の流れを一瞬にして固定してしまい、つかみ取れないないままに指先から逃げさってゆく期待を芽生えさせた。
そう感じられたのは、予期せぬ僥倖に先んじることで受け入れ態勢を整えようと構える結果が逡巡を招きいれてしまっていると云う、あの尊大な好奇心を純一の胸中に植えつけていったからである。
異性を含め他人との距離感を意識しなくとも、すでに自動的に間合いがはじき出されている世情慣れした人間であれば、艶めいた問いに即応して思惑が素早くめぐり、高らかに脈打つことを知るが故に却って、過剰な反射を本能のあかしと認める余裕が獲得されるのであろう。
同時に発動されてしまった事態を不埒なものといさめる分別があったと云う良識が、下半身の躍動を牽制し、狩人が慎重な足どりで獲物に近づいてゆく沈着さを、つまりは欲望を遠回しにコントロールする器量を養うこととなる。
秋波を送られたにもかかわらず、すぐには踏み足を出さずに機が熟すのを待つことによって駆け引きを楽しむ、気品に香るしなやかな情欲をなるだけ持続させる為に。

ところが、若き純一にはそんな術など持ち合せているはずもなく、また元来の性質からしても到底、欲情を一巡させてみるしたたかさは欠如していた。
もっとも、このような場面以外のところでは心理の動きや、彼なりの世界観は独自の価値で理論化され、あるいは理論を基礎づける装飾がほどこされ、秘められた性欲としての範疇できわめて珍妙な禁令が遵守されているのだった。
麻希の目のひかりにまぶしさを覚えたのは紛れもない事実であり、いまこうやって数秒に充たない威圧にも似た好意を含んだ質問にひるんでしまっているのだが、どう答えればよいのやらとまどう要因は、つまるところ女性経験を知らない羞恥に由来するからだと、投げ打つよう自尊心の裡から困惑を見つめてみれば、そこには放擲される自尊心も同様に認められ、案外すっきりした心持ちになって足を引っ張っていたのは、脆弱な理論なのかも知れない、径庭を造りあげていたのは秘匿された怯懦によるものだと、それこそ開き直りに近い明朗さが純一をもう一皮むかせることになった。

「麻希さんの目はきらきらしていて美しいと思います」
麻希にしてみれば、決して間合いを経てそんな言葉が口にされたなどとは考えてもなかっただろうけれど、純一からすれば自分で吐いてしまった表現に実は深い意味合いなどなく、ただ直感がかする上澄みの内奥まで透過できなかっただけのことだった。
そんな純一の気後れに関知してないと云ったふうに麻希は、
「あら、お上手ね。ではその目に映っているのは誰なの」
いかにも含みをもった言い方は、ふたたび目尻に寄せられた俊足なしわと協調しあうよう笑みを誘っている。
彼女の美点を讃えたばかりにもかかわらず、不意をつかれた、いや更に追い打ちをかけた秋波であることを正面から受けとめれない動揺により、純一は視線をテーブルに下げてしまい、
「ひょっとして僕なのかな」
と、まるで無実であることを忘却してしまった容疑者のように投げやりな覚悟がさらけ出された。
「だとしたら、どうするの」
「それは、、、」
ちょうどにごり水の中に顔面を沈めたときの混乱と、刹那の判断を見あやまる不快な驚きを相手に見いだしたのか麻希は、
「かなり酔っぱらってきたのかなあ。目のなかにはお星さまがきらきら、わたしは王女さま、、、ねえ、もう一件いこうよ」
そう隣の香穂をうながす素振りで森田のほうへ向きなおってみせると、多少大きくなった声に素直に煽りをうけたといった調子で、
「よし、じゃあ、カラオケに行こうか」
夜はこれからだと云う勢いには、森田の気配りがかいま見え、今日の主役は香穂なのだと暗にさりげなくそう提案した。
すると香穂の面は洗顔あとのように歓びを隠せない初々しさをたたえた。
一同席を立ちかけたとき純一は足がふらついているのを感じたのだが、店の外に出てみるとすでにその感覚は夜気に溶けだしてしまったのか、次の酒場を選択している森田らの声を遠くに聞いている茫洋とした自分を発見し、それがまさに酔いの証拠だと、揺れる小舟が大海に身をまかせる方便であることに大きくうなずくのだった。