美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 17

街灯のわびしさがこれほど夜を演出している光景を今まで見たことがない、、、ましてや盛夏に向かおうとする時節を気に留めず、知らぬ間に飛び越えてしまった薄ら寒いこおろぎの音を潜ませる青草が、こんなにもぼんやりと火照っている様子を。
このまちに来てひと月あまり経ったころ、宵のなかに見つけたちいさな灯りと虫の音の競演に思わず耳を澄ませていたのが、つい最近のようにも思われる。
三好から、数少なくなったけれども、まだ銭湯が残っていると聞かせれた純一は、興趣つのるまま歩いてみたところで湯冷めにはそう遠くないであろう、ひなびた浴槽と番台の位置も曖昧な造りを自由に思い浮かべ、夕食後さっそく独りそぞろと宵闇が隅々にまでゆきわたる夜道を歩いたのだった。
男女の出入り口が分けられて、しかし互いの湯船の底を海流しているのは、そんな隔てを太古の昔に見失ってしまった情感であろうぬくもりを信じようとするロマネスクなのか、あるいは混浴が想起させる過ぎ去った母性に眠っていたのかは、あくまで湯けむりのむこうに隠された陰部のように、決してあらわにされることはない。

記憶の在りかをどこに求めようとするのだろう、その夜のことを想いかえそうとする矢先、ちょうど蒼天がしめした湿気のなさが夜空へと、ときの橋を渡って過ぎるよう出来ることなら爽快に清らかに、こころの裡へと安置してしまって、意地らしいくらいあの銭湯へと向かった晩の情景が描かれるのだった。
夕暮れの陽をいっぱい吸いこみながら反映する川面の惜別が、一途な流れに身をまかせていることをためらわないように。

不確かな意識に明滅するのは、カウンター越しから客の煙草へと点される瞬きにも似て、素早い着火の陰に消えてしまう宿命に支配されている。
純一と麻希のおそらく冗長な会話のそのほとんどは、一見やわらかに見える木の実と同じで、実際には殻は固く、しかもむき終わるまで要した時間の割に中身がこじんまりした、云わば賞味それ自体よりもそこへ至る道程をたしなみ趣きにひたりながら味わっていたのだ。
来たるべき肉感が、予想を裏切らないこととぼんやりした語感のなせるままに。
深く沈める赤光は暁に違いないと乞い願う声が、言葉にならないままに。
酩酊した純一の目に浮かぶのは、一面が落陽に染めあがっているこのまちの港と、潮風に濡れた今にも溶けおちそうな麻希のまなこだった。

どうやって店の外へ出たのか、どれほど時間が経過したのか、思考回路のぜんまいが急回転してしまって伸びきった純一の感覚に推しはかることは不可能であった。
とぎれとぎれに、古い映像が乱れるように、自分のすがたをあらぬ方向から見つめている奇妙な錯視がまずよみがえり、それもほんの束の間、次には映写された一齣のうちに道ばたへしゃがみこんでいる麻希と、そばから心配そうな表情で覗きこんでいる香穂と森田の影が横ぎり、街灯や酒場の看板に照らされているわけでもない、強いて言うならば月明かりがこの路地の片隅にまで届けられたと形容すべき、危うさと気高さが滲んだまさしく白雲がひかりを吐き出し、その代わりに月光を呑みこんだに違ない阻まれた冷たいほむらが放つ、限りない優しさに包まれながらどっと地べたに手をつき、へどを吐きだしているその顔をよくよく見れば、それは苦渋と恍惚が交じりあった自身の顔ではないか。
夜風に乗ったのはこのからだ、、、窓のそとを舞う取り残された落ち葉の予感は、人生のかけらしか噛みしめていない無念に苛まれる。
深更に聞こえてくる秘めやかなピアノ練習曲のはかなさを、、、明星を待つことなく狂喜を唱える小鳥のさびしさを。
いかなる理由で、無意味な空想が、いや不気味な追憶が選びだされ、いまだ成人に達してないこの身を緊縛するのか、、、それとも昏睡のがわから見つめる世界において、悪夢を打ち払うため恐怖から逃れたい一心によりこんな不鮮明な、だが強烈無比な断片を切りとるのだろうか。
夢のなかから現実に瞬く閃光のすべてが、やはり夢であることをもう一度知るように。

たったひとつ疑えないのは他でもない、その夜、純一の童貞が失われたと云う事実であった。