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美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 21

小首を傾げ気味にした目もとは、身長の差で定置へと配属されたふうに、やや下方から見上げられる面を一層、小悪魔的な挑発で浮かびあがらせると、あたかも純一の視線にそって飛び火して来そうな勢いのまつげが鋭く、際どい電撃になりながらも、信じられないほど柔和に転じてしまうのは、その首もとの真下になめらかに現われている胸の谷間へと、あらゆる情念がすべりおちてゆくことで確定されるのだろう。
焦点がぼやけて消えうる、乳房の盛り、日陰の熱い桃、絶対の果実。

「結局、麻希さんとやらの初体験の確信はないままってわけね。だって、お口の場面しか覚えてないんでしょう。でもいくら酔っているからって、そんな大事なことをぼやかしてしまうなんて、随分もったないことね。ええ、やっぱり当人に問いただすのは、もっとかっこ悪いかも」
ことを終えてみてもはだかのままでいるには、少々肌寒さを感じるゆえ、すでに炎上した愛欲が終息を見せた素振りで互いの衣服をまとい、いかにも見た目だけでは全裸となって求め合った姿かたちは汗が渇くことで、反対に情欲の飢餓が充たされるのだったが、その透けて写しだされるような、こぼれ落ちるために存在しているような、再来する色情を待ち受けてしまうことに帰着してしまう。
丸かじりしたリンゴを今度は、向こう側からかじりつく衝動として。
「いいんだよ、初恵さん、ぼくは闇に閉ざされた記憶であるほうが刺激的だと思うんだ。仮にきちんと経験していたとしても」
そこまで言いかけると、純一は話しぶりでは初恵のほうが性に対してあっけらかんとしていて、その実、年上にしては自分よりおさなげな雰囲気の顔つきをもちながら、からだははちきれんばかりのゴム毬みたいな落差に未だ幻惑されていることを再確認し、すると経験と云う語感が放った意味合いは、言霊なみの霊力で初恵に向かって露呈した自分の性器のようで、なんともくすぐったさを感じながら、あえて深く女体をつらぬく意気をうながし、
「すぐに放出してしまったら、そのあとが続かなかったら、いい印象を残さないかったろうね。でもあの夜は間違いなく、あれをしたとぼくは言い切りたんだ」

そう話してみたものの純一には、あの鍵を手放してからのめくらむような幻想を初恵に語ることが出来なかった。
なぜなら、女体との融合は、この世のもととは異なるあくまで観念的な、自慰が創出した演劇であらねばならなかったからである。
その代わりに夢の彼方にとり忘れた可能性は、ありとあらゆる姿態で非常識なまでの痛快さを演じつつ、だがその反面鋳型に押し込める灼熱の類型が定められること、この両義的な了解がこの世界を実りゆたかなものに仕立て上げてくれるのだった。
麻希との交わりが欠落することによって、初恵のすべてをたぐり寄せ、その他の満ち足りない項目は秘蔵の部品で補填されることとなる。
常に完成されながらも、見事にその場で崩壊してしまう時間の流れのしもべと化すのだが、そこに陰惨な風潮はなく、この能動的な陰りこそ、未来への忠実たる従僕でありながら、闇夜に視界を通じさせる絶対君主の手腕が最良に発揮されるところ、つまりは勤労の歓びを発見する刹那でもあると云えよう。

初恵はそんな純一がなにやら健気に思えてきた。
「わたしは知っている。月影の引力がどんな魔法を駆使するのか、、、あなたの父親と一緒に列車でトンネルをくぐるときに覚えた、うしろめたさを孕んだ好奇心のわだかまりを、、、いつかの夜、死と向き合ったとき夢幻の境地にさまよわせた偉大な優しいちからを」
「初恵さん」
いかにも甘えやわびしさを、哀願にすり替えた純一の声は、月夜の静寂に染みこんで行くようであった。
ふたたび初恵の両目は視界を遮断して月世界へと翔けてゆく。
熱いくちびるを互いに鎮静させると云わんばかりの醒め過ぎた情炎でもって。
初恵のなかに夜の河口が開けてくる。すでに慣れ親しんだ住人だと思いこむ意識には、もちろん刃が仕込まれていた。
「あなたの名を知ったときから、こうやって待っていた甲斐があったと確信したわ。さあ、次はわたしが語りだす番ね」

おそらく初恵は純一のへの復讐を企てたのではなかった。そう自分に言い聞かせた。
ちょうど純一が初体験を幻影と現実の境目で確認するように。
彼女が画策したのは他でもない、この居心地のよい、思春期から萌芽を見せた自身に寄り添っては先んじ、乗じては後手にまわりこみ、生命そのものと不可分になって羅針盤を狂わせた、もっとも愛しい過去、あの影法師に復讐の念を抱いたのである。
それは純一の考える偽装の心情とは異なる、壮大な母性に突き動かされていたのだった。