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美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 29

線路と云う一本に連なる道行き。山間部を走ればすぐに待ち受けているトンネルと云う空間、母体に開けられた魔法の時間が過ぎゆく漆黒。
トンネルをくぐるたびに孝之は、夜明けや日没の意志に促されるよう、思考がおおらかに切り替わってゆく快楽とも呼べる意識の連鎖を受け入れた。
常夜灯の清らかさが、夜を限りなく讃える様は、トンネル内に設置された灯りの流れも同じこと。

純一の事故が大事に至らなかったしらせを受けたこともあり、こうして胸裡を安静にしながら、転落間際の息子のすがたに想い馳せるのであった。
苦い恋の味などと、我ながら歯が浮いてしまいそうな文句さえこぼれだして、そのあとに続くであろう父親としての提言は、傷心の純一に浸透するかのごとく吸い込まれてゆく。
「たとえ過失以外の事態であろうとも、おまえは短期間で見事に燃焼してみせた。田舎暮らしを試してみたと云うことは都会脱出も体験済み、性的なものにまつわる煩雑な心理と体感は、禁欲とうらはらに極めて実験的に推進され、しかも結婚間際まで情念を解放することで、抑圧されるべきものはなにであったか、少しは理解し得ただろう。素敵だよ、純一、爽快だよ、せがれよ。
怖れを知らないことは善いことなんかではない、が、おまえは怖れを洗練のかたちで敬遠し、そして終いには破壊する覚悟で燃えつきようとさえしたではないか。
純朴とか自然とか形容して援用するまでもない、おし着せの洋服が板についてなかったのは昔の日本人だって同じ、本当の自然を言葉や概念で言い表せることなど到底不可能さ。
どうだい純一、今度は学術のために大学の門をくぐり徹底して勉強してみないか。ああ、いいとも彼女のひとりやふたり、それはそれさ。そして父さんの研究を手伝ってみる気はないか、そうだな、わかるよ。
盗み読みする程度だから学術は楽しいと言いたいのだろう。エロスだって覗き見が最高とか誰かが書いてあるって、誰だい、そいつは、ははは、おまえ本当にそうだと信じるかい」

夏の陽射しとはあきらかに強度が異なる乾燥した空気を暖めようと努める今日の光線は、屈託なさそうにも見え、そのじつ大地へ気性を色づけてみた不埒な永遠が、線路に沿ってところどころ群生する彼岸花に仮託して、紅蓮を放出する様が見いだされたとき、孝之は少年の頃へと記憶をめぐらせた。

目と鼻の先にたたずむ校門から自分の家まで、ひらひらと低空を舞う黒地に黄色の紋様が泳くアゲハ蝶。
こんなに通学距離が短いことを一緒に喜んでくれているのか、あてどもない上下左右への慌ただしい飛来は遅刻寸前で半べそになった同級生の面差しを類推させ、年少時特有の優越感にひたらせた。
その微笑が育む香りたつ情感は、そよ風の気まぐれにも似た透明さのなか、ゆるやかなスロープに寄って歩を進めて行くように、無心のまま汚れなき想念へと結ばれる。
家の窓から眺めている孝博の目線を次第に陶然とした奇妙な感覚へといざなったのは、予測不能な飛びかたではなく、三角形に作られた黒衣とも見まがう羽ばたきの裡に黄味が溶けてなくなり、そして不意に土塀などに止まった折にかいま見せる、細身で壊れてしまいそうな胴体が醸し出すあやうい優しさに紛れ、以外な箇所から顔を出してくるので思わず否定せざるを得ない、禁じられた想像であった。

蝶全体の質感があたえるのは、軽やかで艶やかな体毛、、、そう、浴室でしかうかがうことのない母の裸身にとまっている生物、、、溶けてしまい、隠れようとしているのは普段は決してあらわにされることなどない、柔らかなところ。

その夏休みが終わってしばらくした頃、孝之は転校した。
引っ越しの際に数回しか乗ったことがなかった列車に揺られながら、遠くの風景ばかりに気をとられていたのだったが、各駅で停車するたび線路沿いに赤く染まる花の名を母に尋ねてみたことを、たった今まで忘れてしまっていた。