美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 30

夜の海からゆっくりとわき上がる、落ちつきに満たされ出した気分にひたろうとする刹那、忘れかけていたもうひとつの感情が静かに、足音をしのばせたかのような慈しみをもってこの胸のなかに浸透してゆく。
美しい音色でこだまする幽かな旋律は、思念においては捕らえようもなく、不穏な気ままさと気高い曖昧さに包みこまれているようで、その正体を見定めることは及ばず、夜目に映りこむ安慮にひたされる静謐な調べに捧げられた、世界の輪郭線がとけだしていることを知るのみであった。

孝之は眠気を振り払おうとしていた。
緊縛に苛まれる時間を振りほどこうとした結果であろうが、安易に夢の彼方に降りてゆくことを拒んでみせる、あのつつましくもやわらげな意思が、油に水ををそそぐようにしてこころを燃え上がらせ緊縛の縄を焼きはらった。
油は皮膜からしぼりだされ、水は涙の通りみち深くにたたえられ、それぞれ異質の感性で培われていたけれども、帰ってゆくところは同じ場所であり、それゆえに火焔は立たず白くかがやくばかりだった。
夢の炎は冷たい、少なくとも外界の温度よりはるかに低温であり、すべてを鎮火させる作用を秘めている。まどろみかける瞬間、孝之は両の目がまたしてもこちらに反射しているぬけがらになった自分の顔と出会った。
陰影深く沈痛なその面持ちはいわくありげな謎を孕んでいながら、所在ない子供の無心へすげ替えられたぞんざいな視線を放ち、しめやかにまぶたが閉じられる。
至上の旋律はこうして鼓膜の向うがわで奏でられた。長いトンネルへのみこまれる、列車とともに。


記憶の原野はその広大さ偉容をしめしてみせるわけでもなく、ちょうど小さなつむじ風のごとく軽やかに夏の日へと引きもどす。
開け放たれた窓に花ひらく祭りの夜と向き合った、三好荘での一夜。
想いともども二階の欄干から落ちてしまえばさぞかし気楽なものだと、酔眼を弾ませながら、夜空ににじむ打ち上げ花火の残影に感傷を差しだした、あの動揺たなびく過去が信じられないくらいに懐かしい。
来るべき予感の兆しを胸に宿したときが、これほどまでに美しく悲哀で彩られるのは、きっと我が子を身籠ったあらゆる生命体が抱く、しあわせの絶頂であると同時に死への道標であるからに違いない。
古代人は、いやそれほど遠くない先祖もそう信じていただろう。
夢の無限とも云える勾配はこうして孝之の意想を華やかに、さながら大輪が弾け出す火花となり、映像を生みだし、瑣末な神経を豊かな所作に駆りだして、悪夢が悪夢であることを、亜空間が時間どころが魂までもねじ曲げてしまったことを、まのあたりに顕現させた。
すでに悔恨や内省は流れ去る星屑となって、物質の残骸であるかのようにただ一瞥をくれるだけ。
けれども果てしもない彼方にひかりかがやく星たちの、たったいまここに到来しつつある、あまりに壮絶な意志を見上げる目には、切実な祈りが含まれているのではないか。

夢想はきらめく光線と一緒になって、今度はあの夜の氷が浮かべられた木桶が思い返された。
いまが夢のさなかだとはむろん知らない。
しかし、どんな豪勢な巨大客船のなかで宴に酔いしれてみても、海上に運ばれている事実を決して疑わないないように、ここが日々の延長から不思議な扉で閉ざされている空間であることを、半透明の意識にしみ出す岩清水の清澄さで感じとっていた。
その純粋さは、夢見を限りなく尊いものに導く。
木桶にはられた氷水を弾きかえすようにして、きらきらと饒舌なひかりを浮かべる光景は、まるで夜光虫の自在で部屋のなかから遠く天空の果てにと誘われ、そのひかりの、まさに瞬時の、奇跡をふりまく様には陶酔さえも追いつけないあきらめをおぼえるしかなく、取り残された意識はせめてもの抵抗をしめさんばかりに、放心状態を甘受した。
が、小さな願いは祈りへと通じていたのだろうか、そんな無心に、白地の画布に、人恋しさからそっとなぞってみる素描のかき出しに似た微笑が現われる。

孝之は病室らしき寒々とした部屋のベッドに横たわる純一の顔をまじまじ眺めていた。
息子は以前とかわりのない白い歯をみせ、こちらをうかがっている。少年らしい、、、どんなに大人びてみても高尚な精神に囚われようが、いつまでたっても自分の子供であることにかわりはない。
「右目は大丈夫なのか」
孝之がそう声をかけると、
「だんだんのびてくるんだ、この小枝が」
純一の、悲しみとも喜びともつかない声色があとを追った。
そのとき孝之は、今のは純一が喋ったのではなかろう、そう強く裁決をくだす勢いで念じた。
さきほどからベッドの脇に慄然と立ちつくす初恵の影にことさら驚かず、ほどこされた眼帯を突き破り人さし指ほどの長さで芽をだしている、若葉がこぼれささくれだった小枝を見つめ続けていた。

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