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美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 31

「触ってはいけない、医者はどうしたんだ。すぐに手術してもらわなければ」
あわてふためき突き上げてくる衝動に忠実であることを空間は認可しなかった。
床が強力な磁場で形成されており、身動きとれないのが常套手段であるとしても、全身から生き血が抜きとられたみたいなこの虚脱感はどうしたことだろう。
「そうだ、ここから脱出しようとしているんだ。これはまやかしに違いない」
「虚構と知りながら興奮するのは誰、あなたの血は抜かれてしまったわけじゃないわ。騒いでいるのよ、血が騒いでいるのよ。熱い眠りをご存知でしょう」
初恵がそう言っているのか、ひとりごとが聞こえてくるのか、判別はつかない。ただ、ある論理的な考えが呼び起こされた。

授業中に生徒らが収拾つかないくらい騒がしくなる。すると途中でこれは夢だと気がつき、冷静に目覚めを待つのだが、スクリーンに物語が展開されていくように、目のまえの情景は決してとどまろうとはしてくれない。
吸血鬼にとりかこまれるおぞましい場面に接したときなども、自分も首筋を食いつかれ奴らの仲間になればもう恐怖は消えてしまう、などと開きなおりながらも最後には絶叫を浴びせる。いや、ふりしぼることで夢魔から解放されるのだ。
生徒たちに対しても同様、怒りとも悲鳴ともつかない雄叫びが精々のところ、、、よくわかっているはず、身を挺して異形の群れや恐怖の原型を体現した輩に飛びこんで行けるのは、必ず目が開いてからであり、
そして不甲斐なく虚空をにらみつけ、空振りの拳を突き上げることを。

「ではどうぞご自由に、わたしも純一さんもあなたに襲いかかったりしませんから」
初恵の声は、この世のものではないくらい優しく耳に届いた。
天女のごとくやわらかな羽衣の言の葉は孝之をいっとき慰撫しながら、笛の音が風にかき消される風情で、ゆるやかな傾斜にふたたび意を馳せる。
「地平線を知らない原野か、ここだろう、あかずの間の扉は。それでもってそれが鍵っていうわけか。笑わせるんじゃない、一体誰の夢だと思っているのだ、おれの夢なんだよ、これはおれが編み出したからくり仕掛けで稼動しているのさ。すべて答えはまさにここに眠らせてあるんだよ」
そう虚空につぶやきながら、孝之はさきほどと同じ笑みをつくったまま見返している純一に対し殺意に近い情愛を込めながら近づくと、ためらうことなく眼帯に向かって手をのばし、清潔な屹立を保持して生地を痛めることなく芽生えた、刺にしては長すぎる小枝をつかみとった。
「父さん、それはぼくが自分で、、、」
ささくれた感触をにぎりしめる孝之の手を、ひんやりとした、しかし力強い純一の手が被った。
息子の体温が自分より低いことにやるせなさを感じつつも、素早く痛みに切迫する被虐で声を押し殺すようにして、
「放すんだ、おまえの痛みはおれの痛みなんだよ。おまえじゃ無理だ、一気に抜きとってやるから、その手をどけろ」
そのとき孝之は自分の言葉の背後に、幼年のころ押し入れに自ら閉じこもって泣きわめいたこと、母と湯船につかりながら、
「孝之ちゃんはお父さんとお母さん、どっちが好きなの」
そう問われ、何も言えずに無言を通していたら、
「こういうときはお母さんと答えるのよ」
かつてないきびしさとかなしみを突きつけられたこと、そしてあのアゲハ蝶の優雅でせわしない羽ばたきと、彼岸花の鮮血を香らせる生き生きとしたすがた、それらが入り交じりよぎっていった。
純一の手は死人のようにつめたく、かたくなであった。

夢の時間をひとは計れはしない、、、それからどんな攻略が応じられたのかは演出されないまま、いつの間にか、てのひらにある木片を、それは小枝を細工して鍵状にこしらえた異物を、まじまじと見据えているのだった。
あまりの様式に興ざめしてくる、あの退屈へと橋渡しされる手前のため息が、新たな地平まで未開の地までかきわけて行った先発隊の報告を受けるまでもなく、そっともらされた。
「閉じているんだね、地平線も水平線もないんだね。どうして夢の造形まで球体で作ってしまうのだろう」
とても律儀であった。
意外性と放埒に耽りながらも自ら陶酔することなく、様式美を重んじて常に欲望の発火点に気配りしながら、無限地獄と理性を調和し、和声の響きをもって初恵にこう語らせた。
「あなたの夢が嫌なら、どうでしょうか、わたしの夢をごらんになっては。それも嫌なのですか、仕方のないひと、さあその手にしたものをこっちに」
孝之はほぼ覚めきっていた。そしてこう確信を得たのだった。
出口が薄皮一枚のところに自分はいる。手につばを吐いて、それで顔を洗えば目が覚めるだろう。
すると、初恵が言った。
「そうはいかないわ。ごらんなさい、あなたの顔、そんな顔でよそに行けると思いますか」
つばきで禊ぎされたと思われた孝之の顔には、耳以外に目も鼻も口もなにもなかった。