美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 33

孝之の目は渇ききってしまっていた。
絶対の信憑などはなから存在しないことは承知であったし、あくまで夢語りとしての帰依とも云える王国、絢爛たる色彩、つまりは忌諱されるべく極彩色で描かれてこそ、そこに忠誠心が胚胎する仕組みであった。
自分と云う入れものに納まりつかず、こぼれだしてゆく悲涙と同じ感覚でありながら、その目からうるおいが失われてしまったのは他でもない、ひからびた杯の底をしみじみと見つめていたからである。
もし純潔な作用が働いたならば、杯に彩られた赫奕たる錦絵は、血糊でもって描かれているはず、そんな清流と流砂で混濁となったあかつきにきっと見いだされる、わずかの砂金のようなものであった。

息子の健全すぎる快癒は悪業に違いない。
それは凍りつく好奇で幽霊屋敷を訪れてみても、何の異変も生じない情況によるもの、あるいは格闘技を観戦しても、一向に白熱せず引き分けに終始してしまう、感興を肩すかしさせる縁どりのなかへ丁寧にはめ込まれている。
人恋しさから芽生えた素描は、最終的には肉欲にまみれ、愛憎に切り裂かれ、悪夢に溶けだすことで華やかな色に染まるのだ。そうして描かれる風景を自分はこころのどこかで少なからず期待しているのではないか。
真なる美はいつも夜の帳にひそんでいる。
そして漆黒の背景がすべてを被うことで、血は奔放にからだのなかをかけめぐり、勢いあまって飛び散る血しぶきは夢の地平まで届けられるさだめになろう。むろん血潮自体には罪はない、もしそれに罪科をあてはめるのであれば、夢の世界など存在しないほうがよほど救われる、、、しかし、そうなのか、それでいいのか。
巧妙に理性が顔をのぞかせたとき、孝之はすでに覚醒している自分に揺り起こされているような感触でかぶりを振った。
頭皮に触れた冷気は霧だった。もう一度まぶたを閉じようと念じる。

ここでは純一を殺すことも出来るだろう。が、渇ききったまなざしには、もはや流血の赤色は似合わなかった。
そのときである。終着駅に近づいた哀しみをくるんだ明るいひかりが差し込み、
「教授さん、これはどうですか」
べつだん甘くもなく、媚びたふうでもない初恵の言葉つきが目覚めを沈めると、夕陽のようにあたりを黄金色に包み込んだ。
あまりの光輝にすべてがかき消えてしまいそうだった。
彼女がとった仕草は夕焼け空を瞬時にして暗転させる昏睡への導きであり、奇跡と呼ばなくてはならない天女の降臨であり、暗幕とともに降り立った無垢なる妖精であった。

初恵は看護士が身につける白衣を着て、孝之のまえに毅然とした面で対峙した。
それからおもむろにスカートをたくしあげて、真っ白なパンティを惜しげもなくあらわにし、そのまま腰のうえまでまでめくった。
孝之の視野は急激にせばまり、遠い洞窟のさきへ目を細めてしまう希望と怖れに支配され、初恵の表情をうかがい知る余裕もなくしてしまった。
すると喜びも怒りも悲しみも、笑い泣きも、悔し涙も、それから遺恨や羨望も、猜疑で呼び起こされる種々の感情、居直りの砦として自己嫌悪がもたらす悪心さえもが、彼のこころから蒸発してしまい、そこに顔色を識別する必要がなくなったのである。
生命の起源を封印したことに沈黙でこたえようする堅牢な氷柱は、いっさいの不純物を排し、この空間を形作っている静けさに厳かな気配を、死への門口に横たわる純一の真新しい敷物のような姿態が知らしめる鼓動を感じさせた。
なにより初恵があらわにした箇所に、純一の眼帯とは異なった赤い染みを発見すると、そのともしびのような明るみに頬をゆるめてしまうのだった。

氷の大地は少しづつ溶けだそうとしている。
そう、ゆっくりと時間を刻み、空間を悪夢を霧散させようとしている。あたかもここはまっさらにひろがる広野であり、白煙によってそのすがたを失ってしまう、魔法の国のように。
初恵の股間に色づく小さな花弁は、太陽よりもまぶしく、あたたかく思えた。長いトンネルを抜けて浴びる光線とどこかよく似ていた。