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美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 34

孝之のからだにぬくもりが伝わってきた。
「まだ、出たらいけないのよ。あと、十数えるの」
母のくちぶりには陽炎みたいなはかなさがあった。あの頃はまだ薪のにおいが通りを漂いながら、夕闇にひろがっていった。
「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、、、」

見覚えのある、素肌にも想い出が眠っている河口が車窓へ流れだしたとき、孝之は川遊びで冷えたからだの感覚をめぐらしたのだったが、列車は記憶を乗せてひた走り、夏休み、以外なくらい清冽だった川水の郷愁は、反対にふたたび秋日のぬくもりとなって彼のもとに送られた。
風呂場で押し黙ってしまったのは、いまこの耳に聞こえてくる、頼りなげに数を読みあげる若き母の声色とは別の、もっと性急な時間への密着があったからだと思えてしまう。
昼夜の過ぎゆきは木綿のような肌触りで庭先から路地へと抜けながら、いつもの広場へ時間を分配していた。
垣根は家屋や土地をはばむものではなく、やわらかな垂れ幕となって目くらましをしているだけで、そのさきは汚れることを畏怖する霊妙な心持ちに落ちつくのだった。どれだけ衣服を汚そうとも洗いおとせない、未知なる魔手があたりにひそんでいることを感じていたから。

あの夜の母の言葉もそんな魔の先行きから訪れた余韻だったのだろうか。
浴槽の深みを思い返そうとすればするほどに自分の背丈は曖昧になってしまい、年月的な想定はあくまで数値の域をおぼろげにして、それ以上の体感をよみがえらせてはくれない。
しかし、母のもつ背丈が湯船にひたっている光景、膝をおりまげ向かいあっている具合から、なぜかしらその深みを思いはかれた。
大人になった身体から直結し投影されるのではなくて、形になりそうでよく見定めの効かない、沈めるもののような、不確実でありながら、知らざるを得ない恐怖に近い宿命。
無言でうつむく瞬間目にした、母のきびしいくちもとと、やり場のない情感が湯気にのぼせあがり不思議な哀願として、こうしてめぐってくるのを孝之は、ぬくもりが沸点に達したと夢想してしまうのだった。

するとあの黒い蝶のイメージもあのとき母の裸体から生み出された奇妙な妖精なのだろうか、まだ性的な観念など育んではいない証拠に真昼の校舎を羽ばたく様相からも、それは自由な、無邪気な資質で保護されている。
だが、白昼夢が編みだす奔放さの裡に閉ざされた幽門のごとく、不確かな年代記など軽くのみこんでしまう陰のちからを見通すことはやはり不可能なのだ。
孝之は窓外に走った河口付近から鉄橋へさしかかったあたりで、
「なんだ、まだおれは夢のなかにいるんだ。ほんのわずかだった、そんな点みたいな時間のなかでおれは白日夢を分析しようなどとしているのだ」
もうろうとしかける意識は懸命に奮闘する自身を知ろうと努めるのだが、薄目が開かれた車内はまだトンネルを通過中であることも、現実なのかどうか量り知ることができない。
初恵が天女のごとく、あらわれてからどうしてしまったのか、そんな堂々めぐりも錯綜とした、しかし、おそらくもっとも美しい傾斜に沿ってからだごとすべりだすよう、孝之の夢想は意志を孕んだとも云える。

気がつくとあの氷の国の一室と思われる部屋のベッドに横たわっていた。
しかもほとんど魂をもっていかれた純一と入れ替わりになっている。だとしたら息子を助け出すことは無理だったのか。
「なんということだ、いくら夢にしろ、肝心かなめから脱線し見失ってしまうとは」
ところが杞憂を吹き飛ばしてしまう思わぬ展開によって、孝之はさらに捕縛された。
「そんなことないよ、父さん。よくそこまで目覚めを我慢してくれたね。あともう少しさ、その証拠に、、、」
そこまで言いかけた純一の明朗な声を聞くと安心したのか、それとも不意をつかれての反応にすぎないのか、いかにも挑戦的な口調になって、安否を尋ねることさえ忘れてしまい、
「証拠に、、、純一、それはどういう意味だ。おまえにはわかるというのか」
息子は焦る気持ちを察したのか、素早くこう答えた。
「そうだよ、その手にした木の枝が証拠さ。初恵さんは先に行ってるからその枝を持って川に飛び降りてみてって。まえに話しただろう父さん。彼女は夜の川で溺れて生死のさかいをさまよったんだ。あそこに行けば何かがわかるはずかも。さあ、時間がないよ、ここはほんとうに時間が長くて短かすぎる」

孝之の胸中に何とも形容しがたい渦巻きが発生した。それは憤怒でも驚愕でもない、どちらかと云えば脱力とともにやってくる、あきれ果てた安堵だったのだけれど、その底辺には初めて結婚話が持ち上がったときのような、あの複雑な困惑が、小さな芽生えとして誕生していた。
「これはまったく、どうしようもない現実さ」

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