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美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 35

「初恵は確かわたしの夢は見れないはずと言ったはずだが、、、それにしても夜の川ってこんなにも不気味なところなんだな」
磯辺孝之はひとつの決意を抱いてここまで、息子に意見されるまま素直にしたがい、それはあたかも巡礼であるごとく恐る恐る、けれども考える余地などないに等しい傾斜に沿って、突然降ってわいた恩寵の影に身をひそめるようこの空間へと臨んだ。
孝之は理科室などに陳列されている頭蓋骨の標本みたいな魂を宿していた。
呪詛でぬりこまれた単一で、しかも胆の定置も明瞭になった身の軽さはまさに砂塵吹きすさぶ地にさらされ渇ききった髑髏であり、また無傷の化石のように生きたまま時間を喪失した生命体であった。
それゆえに留意すべき点は一途にしぼられる。
さきほどまでの湯船のぬくもりや、夏の川遊びの心地よさをここでは捨てさること、癒しの魔手に気を許しては、空漠な魂で飛びこんだ決意が間延びしてしまう。
「涙にも血にも救いを求めてはいけない、骨だけで十分さ」
あとに続く文句を孝之は先手をもって、箇条書きを読み上げる心意気で声に出してみた。
が、それはまったくの矛盾で編み込まれた、生命体の神経を張りめぐらせており、散骨の儀らしき戯言は空疎な響きだけを残して死者を蘇生させようと意気込んだ。
「ここはおれの夢の現実である。初恵が先回りしていることや、それを伝達した純一の言葉に応じたつもりだが、そのあとの展開はあくまで自分の意志と傾斜を信頼しなければならない」

この川の流れは手を延ばせば届きそうなくらいの身近さで港へと運ばれている。
聞くところによれば、初恵は過失によって川底まで沈みこんだが九死に一生を得た。ひとは死に直面した記憶を決して忘れはしない。その時間は永久凍結され、普段のこころの動きをつかさどる範疇から慎重に隠蔽を得た鎮魂により日々の時間へ障りないよう分配される。
あくまで現実の日常において、、、日があたる陽気で物おじしない清々しい時間において。
それは夢見が当人でなくとも、何らか関わりを持つ限り封じられた忌諱には変わりなく、つまりはこの夢世界においても邪心は純粋に保持されているのだ。
邪心と云う呼称が適当でないなら、怨念でも憎悪でもいい、だから成仏などと思い上がった了見で対すれば、青白き相貌であることに気がつきながらも、細心の用心を怠った結果として、間違いなくすでにひとつの魂魄だけでさまよっている悪鬼に首筋を食いちぎられてしまうだろう。
気骨とは戦慄と共存するための手段なのだ。そして呪詛とは相手を懲伏することではなく、己を愛する逆説的な防衛である。

孝之は初恵が味わった恐怖を想像してみた。
黒々とした水流にのみ込まれる焦燥から逃れようとすればするほど、目にもこころにも見えない川底にうごめく夜の番人を呼び寄せてしまって、一層深みへと引き込まれていく感覚が不安を増幅させるに違いない。
おそらく過剰に反応する手足なども含め、満身創痍で精神の闇もさることながら疲弊しきったからだからは体温が奪われ、意識低下するとともに怖れは緩和されていったかも知れないけれど、それは当日催された打ち上げ花火が、ちょうどあの世の闇で華ひらく死への点火に幻惑されたことで、まさに燈明が漆黒に灯されたと思われる。
その夜、月あかりは本来のひかえめな役割から免責されながら、きっと不運に見舞われた哀しみを嘆いていたにのだが、天空を彩る火花の炸裂の合間に、優しいまなざしを投げかけたことで却って、静寂と火焔の攻防にも似た情景を醸し出し、戦渦における極度の緊張へと身もこころもさらわれてゆくのであろう。
「初恵さん、あなたは地獄をそっくりそのままそのすがたに形づくり、ここへ浮き出るはずだ。どうしようもなく悲劇的で、現実的な仮面の装着を余儀なくされて」

浴衣すがたをさらった夜の流れの向うがいまにも透けて現われそうな、霊魂を呼び寄せる忌まわし気な心性が孝之を支配した。そのときであった。
背後から突然男の声が、とても落ちつきはらい、そしてすべてを見守っているとでもいった低めの響きとなって耳へ伝えられた。
「ここで何をしているのですか。同じ研究にいらしたのでしょうか」
振り向き様にその男の面をまじまじとうかがう寸暇を放擲するよう孝之はすかさず反対に言葉を投げかける。
「あなたは誰です。ここは私の夢なのですよ」
きっぱりと押し売りを拒否するときに似た語気をもって、一声放ったのち、不快な印象はそのまま留め置きながらも、ここに至るまでの道程をつまびらかにしてみたい欲求が突き上げてくるのを禁じ得なかった。
すると夜目にも同年輩と映る相手の返答が、すぐさまにも判明してしまう、それは直感と云うよりも毅然とした証しのような確信でのみ込めてしまった。案の定、
「わけはお聞きしません。たしかにあなたの夢だ。しかし自分は自分の意思でここにたどりついたまでのことなのです」
「いったい、何者、、、」
「フカサワヒサミチというものです。超常現象を研究しております」
孝之は狐につままれた顔をしたままものが言えず、初恵の出現を待つことさえ忘れかけていた。