美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 37

意識の連鎖はふとした弾みで断たれたと云うよりも、それが必然の理であるように過去は隠れさり、いまここに未知なる映像がときの支配から愛でられていた。
湿り気を含んだ磯の風が泥にまみれ、嫌悪までには至らないけれど好ましいとも感じられぬ匂いがあたりを沈滞している様子が、夜目を通せない以上に連なる河口を呼び覚ましたようにも思われる。
川の流れはすごそこまでなのか、、、やがて海水を交じりあうことで、希薄される運命にあろうとも淡水の精は海原に拡散し、あらたな潮流へと導かれることで自由を得る。
腰まで浸っているはずなのだが、その感覚は孝之を拘束することなく、夜気が溶け込んだ川面の暗色な色合いだけが、粛然と両目に映りこみ、そのほかの気配や光景は遠方へと後退したか、遮断されたのか、ただ虚脱したままその場から身動きはとれない。

フカサワと名乗る男の言ったとおり魚の小さな群れは、静寂を損なう気兼ねでもしているのか、勢いを抑制したまま、水中からほんのわずかの跳梁を試しているだけである。その色調は鈍色に施され、見方によっては細長い石つぶてが跳ねているふうであった。
右隣でそっと影を落としている男にこう質問してみた。
「それであなたは女性の姿を追ってここまで来たと言うのですね。しかし、現在は私にとっての領域だと信憑しているわけですが、どうでしょう、ここから出たあと、再びあなたとお会いすることは可能でしょうか。そして、、、」
「そして」
「確かめてみたいのです。フカサワさんが検分しにやってきたように」
するとフカサワは微少とも苦笑ともつかない、いや、それらが合わさったと形容したほうがふさわしい表情を作りながら、
「なるほどそうですか、あなたのお名前をうかがっても」
「はい、私は、、、」
狼狽した顔つきを意識しながら、孝之はなぜか、火に焙られた紙きれが瞬く間に燃え尽きてしまうの光景を思い浮かべ、悔やみ焦りつつも、どこか覚めた気持ちで見届けてしまう諦観に促されるまま、
「すいません、自分の名前がわからないのです。誰かに呼ばれたらきっと」
不甲斐ない声遣いでそう答えてしまった。
ひとり息子の父親だったこと、大学教授であったことなどの記憶もおぼろげになりつつある。不意に魚が左のほうでわりと大きな水音を立てた。
その刹那だっただろうか、問いに対し明瞭な返答と予言を告げた男が視界から消えてしまった。
振り向いてまわりを見遣る仕種も捨て、ひたすら前方に目線を固定したまま、魚の群れが集まりだすのを、さながら祭りの提灯が寄り合う際のぼんやりした甘い怖れが胸になかに訪れよう、異形のしるしが形作られる望みと共にじっと待ち続けているのであった。

どれほどときが過ぎていったのだろう。
意識は適度に明晰であることで却って、間隙の存在を恣意的にちょうどふるいにかけるよう見落としてしまう。
純化物を手もとに引き出す使命に忠実であるあまり、あみの目の役割さえ忘れてしまった愚鈍さのうえに、ある精選された心象がとり残されるのである。
夢の世界では定則と云えるこの放埒で無軌道な習わしは、扇のひだにひそんだ荒ぶれる情念をよぎらせ、ひと振りの瞬間にたち現われてはかき消されるはかなさで、幽かな余韻だけを覚醒のあとに運んでくれるのだ。
煩瑣な夢見であったのはこの扇のなせるわざ、見果てぬ情念を封じるためにたたまれるのか、はたまた、物語りを流暢にそして華やかに演出させる為、あえて禁欲的なはからいがもたらされるのか、すべては隠された意想であり、全貌があらわになることはない。
それは雪おんなの面影のごとく冷淡でありながら、凍りつくほどに美しく、そう、欠片とも云える他の情景は須臾の間に凍結された想い出だったのかも知れない。

さて、孝之のこころ模様も超俗にしたがい変化を見せていた。
むろんのこと定則などの事情を知るよしもない、反対に彼の胸中に高まりつつあったのは、地獄図絵に見まがうであろう水死寸前の初恵の面貌から受けるおぞましさであり、それは腐敗する人骨が放つ、忌まわしさを連想させる威圧感を備えているにも関わらず、朽ちゆく悲哀を永久の彼方までたなびかせることなくとどめ置かれることによって、魂の所在を感じとったとき、あたかも腐臭の素をなす粒子が散々と黄金色にきらめく霧状の放出に昇華し、怨憎会苦から解放してくれる予感であった。

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