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美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 38(最終話)

出現と言い表わすには実感からほど遠く、疑似空間を再認識しようとすればあまりに近距離であって、飾り棚の人形を見つめるなまなざしが、そこに生身の生命を見いだそうとする幻視のような仕掛けなら、半身水中に没する浴衣のなりはまさしく実在を逸した、霧にさらわれた神隠しの女といえよう。
なるほど、教えられたとおりボラの稚魚らしき群れが川面を飛び交いながら、初恵の面をかすっている。
その目はちからなく垂れた首の角度に沿うようにして、閉じられたまま水流をまぶたの裏でとらえているのだろうか、抵抗することなくほとんど横倒しの情況からは、いかにも虚ろなからだを浮遊させているふうにも判ぜられ、こころなし流れはもうこれより速まることも、深まることもなく、ただ夜が明けるのをそっと待ちわびているのだと、確信に近いものを得た孝之はもうこれ以上、この場へとどまる意味を探し出せなかった。

あれほどまでに疑心暗鬼がはびこった果ての決死の覚悟は霧散し、と同時に瀕死の状態である人間を救いだす算段もないまままに、、、もちろんこれは孝之の思念とは別のところで大きく働いていることを認めざるを得なかったわけだが、朦朧としかけたあたまのなかで意識を保てるのは結局、己の想像が編み出した怯懦と自虐であることに債務を委ねた証しであったのだと、蓋を開けてみれば興ざめ甚だしい帰結へと降りて行った。
「彼女を突き落としたのは自分かも知れないが、詰まるところ因果や縁起が介在していたとも言えるのではないか、もうおれの手からはすべて離れてしまっている。それともこうして夢の奥深くまで迷宮をたどるように彷徨っているのは、いまだ因縁から解き放たれていないことを自覚するためなのか、、、これほどまでに罪深いというのか、、、おれは破戒僧なんだ、ときがときならば。だが、それがどうした、おれはそんな時代を生きてはいない。現代を生きているんだ、、、いや、現代を夢想しているんだ」


列車が長いトンネルを抜けた瞬間、気圧が大きく働いて孝之はようやく目覚めたことを悟った。
しかし、ため息のような声を軽くもらすと再度、目を閉じて夢の残映をたぐりよせ、口角にやるせない笑みを浮かべながら、呼吸を静かに整えて異界へと旅だつ心構えを了承した。
車内は幾分騒がしくなっている。
向かっている駅が近づいてきたので、乗り合わせた中には同駅で下車する者もけっこういるようだった。
「あっという間さ、夢の補遺は」

閉じられた目の裏に再び夜の川が映じるより先、ほんの束の間に嗅ぎとったあの不快さも懐かしい匂いが鼻孔をくすぐり、むこうへ広がる港にたたえられた海面が波打ち揺らぐ様は、車両の振動と重なりあって満ちゆく潮のリズムに誘われ、いとも簡単にを河口を飛び越え岸壁に寄り添うようにしながら海上へと魂を流し始めた。
上空では爆音が響いているようだ。
祖父や親戚筋から幼いころ聞かされた空襲のはなし、、、そんなことを呼び起こしつつ、海面から頭上を仰ぎ見ようとしてみたのだけれど、やはり体裁を整える余裕が足りなかったのか、耳より他は孝之の顔には何ひとつ存在していなかった。
とすれば、この匂いはいったいどこからやってくるのだろう。紛れもない潮風の漂い、転校先の漁村で迎えた少年時代。潮騒が夜になると際だって聞こえだし、夏の蒸し暑い時節には、いつも鼻先をかすめていった海の香り。
孝之はしばらくして納得した。
それはこの体内の記憶から発生しいていることを。そう思うと涙がこぼれ落ちそうになった。
悲しいかな、涙をあふれさせる涙腺も眼球も持ち合せていない。仕方なく海中にもぐりこむと悲哀は一気に鎮静され、今度は息苦しさを覚えてあたまを海面に突き出したのだが、そのときぼんやりとしたひかりが遠いところで灯っているのを見つけたような気がした。
それが月あかりであること知った刹那、孝之の目は開かれたのであった。