美の特攻隊

てのひら小説

夜風のささやき

その澄んだ碧眼の奥に映しだされた色彩は黄金が風にそよぐような麦穂だった。
晴天ではなかったが、光彩をまとったしなやかな群生は空の青みを招いているのか、遠くに連なる山稜まで呼び声はこだました。
頬をなでる髪に映発する、白金の柔らかなひかり、ベロニアは微笑んでいた。
想い出のありかを探りあてることにもう飽きてしまったのか、忘れてしまったのか、見渡すかぎり草原の放つひかりがすべての情景を担っているのだった。

失われたものを徐々に取り戻そうと努めたわけではなかったのだけれど、ある夕暮れメデューサに触れることをためらっている朱の光線を認めたとき、べロニアは妙な胸騒ぎをおぼえ、よろめく足つきにまかせながら石像へと近寄った。
こころのなかに言葉が浮かんでは消え、消えてはさまよいだした頃には、秘密のベールに守られた会話が成り立っていると思いなし、迷妄を支えにしつつか細い声をもらしてみた。
夜風のささやきに似た、けれども異界にしか吹き抜けることを許されない、内語の反乱。
それはやや伏し目の気難し気な表情をしたメデューサに伝わった。地を這い、夜気をくぐって。

「わたしの両親は麦穂のひかり、顔はまぶしく、目を細めなくてはならないから余計に遠のいてゆく。きっと迷子になったのよ。だってどこまで突き進んでも風景は絵画のように止まっていたわ。何者かの大きな手がわたしの背をつかみとった」

メデューサの昏き眼がうっすら色づいたのは天空のうつろい、月光のしわざだったが、ベロニアには一瞬の出来事にしか感じられなかった。
今宵は鎮守の森にてかがり火を絶やさぬ祭礼、城に残されたのは家僕と番犬、それにほとんど名ばかりの病身の執事が床についているだけである。
奇妙な胸騒ぎはときを選び、そのゆくえを占ったのだろうか。

「ここに来た当初のことなら覚えているわ。それはそれは厳めしいご主人さまで、わたしは祈る言葉をなくしてしまった。お嬢さまがご生誕されたときの記憶は鮮明よ、今よりもっと沢山の家族で、召使いの数も知れないくらいだった。厩舎からはいつも匂いが漂っていたわね、懐かしいわ。村人たちの出入りも頻繁だったし、異国の行商人やいかがわしい女もちらほら、日をあけず催しがおこなわれ人々の顔はとても生き生きしていたわ。ひとつひとつの場面が切り絵のように、手をのばせばすぐにでも触れられそうだった」

ベロニアはよほどの悪天候でないかぎり毎夜、石像と向き合った。
それは煌々と照りつける月あかりが辺りに際どい陰影をほどこし、魔手の胚胎に力添えしている冴え渡った夜更けのことである。
番犬シシリーの気配を察していながら、開き直りに近い意欲でメデューサの復活を願ったベロニアはある決心のもと、誰からも教わったはずのない、だが人知れず連綿といにしえより伝えられてきた秘法を身につけた威厳をもって儀式を執り行なった。
正確には呪詛と呼ぶのがふさわしく、また形式からすればその狂乱の姿態は、床に散らばった薔薇の花びらのように艶やかであったので、念入りな化粧がもたらした凄みは石像のかたくなさに染み入ったかに見えた。
その唇を染めていたのは自らの手首を斬りつけた鮮血にほかならず、人語を放擲したベロニアは呪文がとぎれるごとに赤みを補充するだった。
やがて夜空からの使者が舞い降りる予兆として月が雲間に隠されたとき、それまでの張りつめた様相が緩まると、視線はあらぬ方角へ向けられ、こうべを垂れたままがっくり膝を落としてしまったのである。

「攫われしは者は汝に限らず、我が身とて同じ、今こそ目醒めよ、ニーナ」

ベロニアはてっきり自分の口をついて出た文句だと思ったのだが、闇が支配するさなかでも石像の身震いをはっきり目の当たりにした。そして耳に入る声色のなんという雅かな響きであることも。
城主の娘に抱かれるはずだったニーナを探しださなければ、、、だがその願いは暗黒に閉ざされ、粋を脱することは不可能だった。
なぜなら暖炉に焼べられ灰になったニーナを、裏庭の麦畑に蒔いてしまったのだから。
脳裏に渦巻く不穏な光景を押し返すよう、ふたたび黄金色のかがやきが立ち帰ってきた。
「わたしに想い出はいらない」
ベロニアは石像を上目遣いにして、そうつぶやいた。

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