美の特攻隊

てのひら小説

夜の河 〜3

ほの暗い眼をした見知らぬ男が、すれ違い様に何とも薄気味悪い笑みを浮かべる。
暗鬱な余波だけを残して遠ざかってしまう男の行き先を初恵はなぜか知っており、それが恐ろしく矛盾した思念であること、はかない定めと了解しながらも、男のたどる軌跡に一抹の望みを委ねた。
どうして死神の訪れを許諾しかねないそんな直感がよぎるかと云えば、それが夕陽のもと、地面の裏からしみ出してくる自分の影法師であることを確認する、黄昏の哀歌であり、すぐそこに迫り来る宵闇にとけ込み飲まれてしまう一日の過ぎ行きへの挽歌であると感じたからである。

青葉の茂りが闇のなかでひっそりと眠りつくように、溌剌とした若い情動もやはり小さな死を迎える。
それは生育や未来への躍動であるがゆえの陰画として、すべての想念を暗幕で覆う。
この年頃には誰もがそんな気分を覚えるはず、夏草の吐息や笹ずれの声色にも、悠然とひろがりを見せている入道雲の刻一刻のためらいにも、さざ波の去来に永遠を見つけ出そうとする歓びのうちにも、必ず行き先が存在すると云う確信をもって。

初恵は突然の事故に見舞われしまった我が身を冷静に判断できず、誰からも不運の様子を見つけ出されることのないままに時は過ぎゆき、辺りが薄暗くなりかけた頃ようやく意識を取り戻した。
明瞭な思考を働かせる前に、くだんの笑み、夜の番人から折り目正しい挨拶を受けた。
それはひとがたを借りた目配せのようなわずかな符号だったが、真摯な解答に違いなかった。ちょうど自らのなかに潜む生命力を、浮き出た毛細血管にて見つめ直し再認識するように。

わたしの血は赤い、、、朦朧とするあたまの上で、その赤い血潮が大きく輪のようになって飛び散る映像が花開いたのは、幽明にさまよい出た陰りの森から、民家の灯りをその先に認める距離感をはっきり計りとれない放心と同じで、今、現実に港の上空へと打ち上げられた花火の爆音は耳元に届かなかったにしろ、半目開きの視線は夜空に炸裂した大輪の一瞬を見逃していなかったのである。

初恵は間を置きつつ空高くつき上がって行く火焔の種子がひとつ、またひとつと赤く青く開花していくのをぼんやり見つめていた。
するとふだんとは異なる華やいだざわめきは、本来ならば身に直結する恐怖の感覚を、何処かへ浮遊してゆく童心に帰そうとして、いっそう霧のかかった隔たりをつくり出し、それはあたかも黒雲に隠されてしまった月の光のような薄明るい調べとなって、天空から降りそそいでくるのだった。
そして水面のかすかな意識は、生と死の分水嶺へと流れ落ちるそうになる清濁のまま、ことさら呻吟するのではなく無心に受け入れようと、やわらかなその光のもとへ、魂をさまよい出させたのである。
初恵はまるで気流の目のようになって、河口を下り潮風と硝煙がまじりあう湾岸まで流れついた。

夜の海に鳴り響く爆音はいたるところで反響しあっている。
天上に放射状にひろがる色彩が弾きだす大きなこだまは、今宵つどった人々のうちに様々な残響をもたらし、余韻にひたる間もなく、新たに鮮明な印象を残していった。
黒い海面は波間を自在に固定したかの意思をはらみ、ほとばしる火片の残像を消しさることを忘れて、次から次へと打ち鳴らされる梵鐘にたましいを吹き込まれ、月のみちひきから解き放たれたように変化するのだ。
それは深紅の絨毯が数えきれないほどの燭台を反射している、きらびやかな錯覚に似ていた。
一年に一度の奇跡、天海の競演は、陸地との境界線をきわめて曖昧なものにしてしまうと、大きく了解したようで、もう些事にはいっさい関知することなく、夜空の変幻を人々へ気ままにまき散らかし、あとは幽冥界からの声なき声に耳を傾けるのだった。

初恵はまれびとになって境界線をすり抜けていった。自分のすがたが幻灯機であることに喜びを見いだしたのか悲運は転じ、すべてが成就したと夢みられた。